音は聴くものか?
佐草夏美さんとの「耳はむ魚」公演の投稿で言った最近考えていること「踊り-揺れる-水-触れる-皮膚-同期-音-振動」と主旨が大変近似している演奏が今週末長野県大町であります。
信濃の国原始感覚美術祭2016でのオープニングイヴェントで、笙の大塚惇平さんが付けてくれた公演タイトルが「うみに聴く、水の沙庭」。湖を望む神社の神楽殿で行われるイヴェントです。何も言って無くてもいろいろな興味ある要素が集結した感があります。偶然を越えたレベルかと。
現在大ヒット上映中の映画「Listen」(聾の人々の音楽をテーマにした無音の映画)のパンフレットに私が寄稿した文章を、映画の許可を得ましたのでここに載せます。
映画は拡大ロードショーがじわじわと拡がっています。
お近くで上映の際は是非ご覧ください。
また、自主上映希望の方には、その要項があります。
お尋ねください。
https://www.youtube.com/watch?v=Z_mddeYIndA
・・・・・・・
音・響 (音は聴くものか?)
聾の人達と共演して数年になります。多くの教えやきっかけをいただいて、私の人生は本当に豊かになりました。感謝しています。音楽家と聾の人達が共同作業するなんて思ってもいませんでした。「タツノオトシゴ」は、普段は聞こえないけれど海に入ると耳とは別の器官で聴くことができるという説にちなんで誇りを持って「聾」という言葉を使っているということも初めて教わりました。
彼らとの共演は深く繋がっていると「実感」できます。事前に伝えなければ、彼らが聾であることを最後まで気づかない聴衆は多く居ます。
では、聞こえるとは一体何なのでしょう?聞こえる同士でいくら会話を重ねても、聞きたいことしか聞こえず完全に誤解していることは多々あります。それに対し舞台に立ってイノチガケで繋がろうとしている聾のダンサー・俳優達とは聞こえなくても十二分に伝わります。手話通訳も時には邪魔なくらいなのです。
白川静さんの説によると「音」という言葉は、水を張った神器で、神に願いを託し、その水の表面がわずかに揺れることで神の答えを「見」る、嘘をつくと「はり・辛」で入れ墨の刑になる、ということが起源だそうです。音は見るもの!なのです。懸命な願いを込めて答えを「待ち」、見守るものだったのです。暗、闇、などの漢字に音が使われているのも納得できます。
「ミラーニューロン」という学説を近年イタリアの科学者が唱えています。身近な例で言うと「もらい泣き」「もらい笑い」です。バンジージャンプをする人に付けたカメラの映像をみると身がすくんだりしますよね。あれです。見ている人と同じ神経がまるで「鏡」のように動くと言う説です。
ダンサーを見ながら演奏するとダンサーと同じ神経が発火していることは実感してきました。自然に身体が揺れるのです。逆に演奏者を見ているとダンサーも聴衆も演奏する神経・筋肉が動くわけです。演奏しているのです。凝視してしまうと特別な「意味」が生じてしまい「説明」してしまいがちですが、「半眼微笑」で焦点を合わさずにボーッと見ることは他ジャンルの人とコラボレーションするときに大事なヒントになります。目をつぶって自分の世界に入り込んではモッタイナイ。
音楽は音が止んだ時に始まる、というやや逆説的なことを考えることもあります。聴いている時は音と一緒に流れていて、音が終わった時に自分がどこに居て、何をしているか初めて気づくのです。そこで音楽あるいは沈黙が初めて立ち現れ「自分」を発見する。横に流れていた時の流れが停まるのです。
雑音に満ちた音楽を演奏することがあります。何十年もイヤって言うほど練習し、世界中で演奏し、楽器、弓、松脂などなどすべてを厳選に厳選を重ねた果てに出す音が「雑音」。楽器に初めて触れる人とあまり違わない音を出しています。それは、雑音が雑音であればあるほど、終わった後の沈黙が深まるからなのだと推察します。その沈黙を得るために雑音を出す。すわなち、音が終わった時に本当の(沈黙の)「音楽」がはじまるのです。
「音楽」になろうとしている「何か」が身体の中にあって、外部から刺激され(刺激は音楽であっても、詩でも、美術でも、ダンスであってもいいのです。)「音楽」になっていくと想像すると楽しいです。大事なのは「音楽」になろうとしている何か、なのです。
視点を変えてみます。人間の身体の70%は水分だそうです。この水分が揺れる。揺れは伝わり、共振する。蛍の点滅がいつの間にか同期し、ばらばらに動いていたメトロノームがいつしか同期して同じように振れるということは不思議ですが事実です。
「揺れる」とは「混ざる」こととも言えます。沈殿せずに反応をおこすこと、すなわち、変わること、これこそが「生きる」ことの原則なのかもしれません。美は乱調にあり。
演奏家の身体の中の水の揺れがダンサー・聴衆の身体の中の水の揺れを引き起こし、同期し、化学反応を起こし、フィードバックしあってその時・その場・その人達でしかおこりえない空間を創造する。ここには、音の聴取によるコミュニケーションが必須だということはないでしょう。
伝えたい気持ち、求める気持ちが溢れ、そうせずにはいられない情熱があれば、伝わらない訳はない。
揺れ・振動を考えると色も振動です。音の旋律・ハーモニー・リズム・音色は色の旋律・ハーモニー・リズム・色彩と変わらない。身体も音も色も同じ。
「響」という漢字は二人が向き合って座っている、そこに共鳴がおこる。共鳴は、共鳴を生み、巻き込み、無限に、永遠に拡がっていきます。そこでしか起こりえないことが、「それゆえに」永遠に繋がっていく。そこに、音も色も身体も区別はないのです。身体の中の水の中心「血液」は海の塩分濃度と同じ。命の源である海で繋がっているのですからこれ以上に強い繋がりは有り得ません。
齋藤徹(コントラバス・作曲)