「りら」初演@公園通りクラシックスにジャック・ディミエール参加
帰国前のジャックと話し合って「りら」を聴き・観に行きました。ここにはグランドピアノが2台しかも内部奏法OKという希有な場所です。ジャックにも「りら」にも「もしかしたら・・・」と伝えておきました。
そして、第2部にジャックが全面的に参加したのです。これはミラクル。即興演奏の良いところはリハーサルなしでも誰でも出来ると言うことです。もちろんそこには良い面と悪い面があります。
リハーサル無しと言っても、即興演奏は日常が他のジャンル以上に問われます。自分がなぜ即興という方法を取るのか?取らねばならない理由は何か?他で替えの効かない表現衝動があるのか?などを日常的に考え実践しているか、が問われます。
世界で起こっていることに敏感でいて情報を収集していること、などなどの条件がすべて重なって偶然のように様々なことが起こるのです。ジャック・ディミエール来日公演を聴きに行っていたり、私のWS参加などもその1つになるのでしょう。
偶然と言って、ミラクルと言って歓ぶのも良いでしょう。何が起こったかをしっかり客観視し、出来事をひとつひとつ身に入れて咀嚼しつつ、一瞬一瞬続いている今を刻むことです。世の中はミラクルで満ちている。
この前の私のヨーロッパツアーでもあらかじめ決まっていた演奏以外に突発的に・即興的に自然に起こった演奏がいくつもありました。それらは自然に形作られたために冒険的でもあるのですが、先に繋がるものもふんだんに内包しているのです。冒険的であり実験的であることの純粋さと危うさ、それを補強し実現化する日常。そして「お金」が介在しない自由さと不自由さ。
詩の朗読で「風吹く」と笠松さんが言った瞬間にジャックがペダルを踏みピアノ線に息を吹きかけました。このミラクルいとおかし。
聴く・待つ・信じるという要素はたいへん大事です。しかし例えば場所を借りて、聴衆を集め、入場料を取り、行うときは更に必要な要素がいくつかあります。それはその時・その場の「エネルギー」「気」を集約し加速度を付け「越える」きっかけを創造する。時を・場所を・自分を「越える」きっかけです。そのためのダイナミズムをコントロールする。(投げ出すことでコントロールすることもあります。)「これをしていなければイキテイケナイ」という覚悟のみが通行手形となります。
では、お金を取ることは?それは「芸に対する対価」ではなく、こうやって生きて行かざるを得ない人間に対するお布施。自分はそんな生き方できないけれど自分の代わりにやって欲しいというお布施かもしれません。目的は享楽ではなく、捧げ物、感謝、願い。
そもそも資本主義的な金銭授受を超越するようなインプロヴィゼーションにはそういう面があるのです。
とてもジェントルなジャックは四人の女性に対してとてもジェントルな演奏をしました。(このツアーでは聴かれなかったハーモニーがふんだんに出ていました。)また、よく聴き合っている演奏家・朗読者を高く評価し、オリジナリティを確実に獲得しつつある華と書の自由な行為に感嘆していました。ベテランと初心者の区別など有りません。初演成功に演奏で花を添え「始めてしまったのだから、継続すること」とアドバイスしていました。ご自身のことも顧みたのでしょうね。