traveling aloud @ 茶会記

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演奏が終わった時に音楽が始まる

ジョアン・ジルベルトのソロコンサート、途中で寝ているのだか、沈思熟考しているのだか、5分も10分も止まってしまうそうです。五代目古今亭志ん生師匠は高座で本当に寝てしまい、ヤジが飛ぶと「寝かしといてやれ」とヤジが応答し、目を覚ますと何事もなかった様に噺を続けたたそうです。海童道さんは、巨匠大勢が出演する舞台に参加したとき、人間国宝などの人々が懸命に「練習・リハーサル」をしているのに腹を立て、舞台でわざと寝たふりをしたそうです。

ジャックとの演奏で、このところ演奏が終わってから沈黙の時間が1~3分間あります。もっと長く感じます。これが良い感じなのです。(聴衆も演者も)

かつてCD「Orbit ZERO」(TRV-007)のライナーにこう書いたことがありました。

何で、こんなことになっちまったのだろう?

貴重な楽器や弓を手に入れて、弦もピックも松脂も諸パーツも厳選して、イヤって言うほど練習をして、イヤって言うほどの世界中の音楽を聴いて、いろいろな所に旅して、家族ももってさ、余裕のないくらしをして、「この音」だぜ。「普通の」音なんかほとんどありゃしない。誰だってできるんじゃない?(後略)」

私なりの解答として最近思っているのは「演奏が終わった時に音楽が始まる」ということです。ありったけの自分あるいはありったけ以上の自分で精一杯ノイズや訳のわからない音を出す。そうするとそれが終わった時の沈黙はより深く、より純粋で、より貴重になる。そのためにこそ「変な」音を出すのではないでしょうか?知恵と思いと経験のこもった変な音の後に訪れる「沈黙」はそれゆえに尊く、何にも代えがたい。

喜怒哀楽に収まらない気持ち、なんとも形容しがたい気持ち、モヤモヤとした形状のない気持ちにキチンと答えてくれる・応えてくれるのは、より深い、より純なその沈黙なのではないでしょうか?

聾の方々との共演でも同じようなことを感じます。実際の音でコミュニケートしているのではなく、願いや思いでコミュニケートしている。音は聴くものではないという昨日の投稿にも繋がります。

また、浮き世の憂さを「忘れさせてくれる」音ではなく、何かを「思い出させてくれる」音に関係すると思います。思い出すものは、体験したことに限りません。経験していなくても思い出すものは無限にあるのです。

さてさて、7日間続いたジャックとのTraveling Aloudツアー本日最終日です。

そんな沈黙を味わうためにも、ご来場ご検討くださいますようお願い申し上げます。

7月23日(土)稲毛 Candy ジャック・ディミエール・齋藤徹 with 黒田鈴尊(尺八)

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