7月8日ソロリサイタル用選曲をしていると・・・その8
今、私はどのあたりにいるのか?ちょっと長いスパンで客観的に見渡してみるとダンサーやハンディキャップのある方との共演が多いようです。身体性や呼吸に対する興味、皮膚・触ること・振れること・ミラーニューロン・同期・同調・効果に溺れない方向などに興味があるのでしょう。身体は限界だらけです。つまみを回して調整することができない。身体の限界こそ想像力の源になります。無限の想像力に対しては電気も科学も無力です。ほんの少しの呼吸の工夫で膨大なエネルギーをコントロールします。それぞれの感覚は共に繋がっていて補いあっています。
ビブラート。いったいビブラートとは何?どのように人を魅了し、嫌がられる?
人の身体の70%は水分だと言います。ビブラートは身体の中の水分へ作用し、同期を求め、同調へ誘う。輪郭を消し、大きなものに連なることを誘う。何のために揺れる?スウィングする?それは混ざるため・化学反応を起こしやすくするため。
ビブラートの元は「うなり」。ほんの少しの振動数の違いがうなりとなる。人はそれに対して落ち着いていられない。水が動き、身体が動き、変化を求め、同調を求め、自分の輪郭・境界がなくなり、自分が自分で無くなることを望み、さらわれる状態に持って行きたい。より大きな「うねり」のなかに浸りたい。
人はなぜ踊るのか?なぜ集まるのか?なぜ歌うのか?そのあたりにヒントがあるかもしれません。「ええじゃないか」を権力者が怖れたのも分かります。彼らには統御できない。歌うことも似ています。歌うことで身体の中を混ぜ・変化させ・同調、同期を求め・自分が自分で無くなることを望む行為。「歌」の漢字の源は、願いや祈りを聞いてくれとリズムに乗せて神に訴える(白川静)ことだそう。
リズムに合わせることも同じ。リズムが合ってきてグルーブがでてくると統率は効かなくなりどこへ行くか誰も分からない。より大きなリズムに曳かれていく。もともと、ヒトは渾沌(カオス)・ソラリスの海へ帰ろうとしている。
大音量を「おとな」達が嫌うのも似ています。自分が保てないほどの大音量の中では、自分の輪郭を維持することが出来ずに、どーでも良くなってしまいます。どうなとしやがれ!状態。常軌を逸することに躊躇いが無くなるわけです。そんな「不良」達に多少なりとも憧れる人達は多数派でしょう。
自分が自分でなくなることは「反社会的」なのかもしれません。~の子供、~の親、~の配偶者、~の兄弟、などなどを承認・確認することが社会の一員として必要です。そうやって社会は成り立っている。ですから、逆に「自分」が「自分」でなくなっても良い、さらわれて行ってしまって良いということは、権力者にとっては困った状態です。社会に縛り付けて、見張り、見張られ、税金を払うことを拒否されるからです。
自分は自分でなければならない、という暗黙の強制を「歌」や「踊り」は無にしてしまうきっかけになるのです。社会が歌や踊りを怖れる理由かもしれません。特に成年男子はそんな事をしてはいけない。歌舞音曲にうつつを抜かしてはいけないのでしょう。
変化を求め、動く、これが生物・動物の基本とすると、同時に、待つ事・落ち着くこと・止まることも大事になっていきます。動いて動いてさらわれて、自分が自分で無くなる欲求(本当の自分はどこにいる?)と同時に、外的変化を求めず、待つ勇気が必要になるのです。
相反する二つの事柄ですが、根を持つことと羽根を持つこと・両方とも欲しい!のです。欲張りなのです。
そのために「聴く」こと、音を意識すること、聴かないこと、意識しないこと、全部欲しいのです。
そんなことを願いつつ演奏したいと思っています。
ご一緒にお楽しみいただけると幸いです。
齋藤徹