選曲していると・・・その7

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7月8日ソロリサイタル用選曲をしていると・・・その7

やっぱり、インプロはやっておかないとマズいでしょう。

インプロとフリージャズは出自が違います。簡単に言うと、ヨーロッパで、「オレ達は、アメリカ黒人じゃないからフリージャズはできないよ。叫ぶ内容が違いすぎる」、「でもオレ達の土壌にある現代音楽や、ロックの中にこの気持ちを表せる方法があるかもしれない、」。それと平行するようにアメリカ黒人たちのフリージャズも、アフリカ回帰や、民族音楽への接近がありました。もとを辿れば、フリージャズと言いながらその代表のようなセシル・テイラーの初期の作品が「Unit Structure」構造の単位だし、スティーブ・レイシーは音列の実験を繰り返していました。決して「何でもありのフリー」ではなかったのです。今のヨーロッパでのインプロに直結するのは、西海岸の白人ジミー・ジェフリー達の音楽でした。

一方、我がニッポンでは、情念を叫ぶ伝統のようなものが脈々と続いていて、フリージャズやフォークの叫び、情念の舞踏が消えたことはなかったようです。それだけ世の中には嘘が多く、正義が報われず、強いストレスからの叫びが必要だった、共感を得たのかも知れません。

とまれ、即興の思想や哲学に言及することはほとんど無く進んできています。少しは考えておかないと、やりっ放しになり、飽きてしまうと止めてしまうことに成りがち。それでは惜しい。人間の行為として一生続けることのできる、成長できる、発見できる方法だと思えて成りません。

例えば、「インプロ」の対義語は「作曲」では無い、と考えて見ましょう。インプロの対義語は、「当たり前と思われていることども」であり、「常識」であり、さらに言えば「自分自身」であると考えると視野が一気に広がります。発見の無いインプロは有り得ません。

インプロと称して、いくつかのフツーでない技をとっかえひっかえやって終わり、ではイケマセン。形ではないのです。楽器を初めて3ヶ月の人と30年の人が同じような音をだしたりします。それはしゃくに障る。では、もっと効果的にしよう、ということでは無いのです。何十年も練習を繰り返し、楽器・弓・松脂・弦を厳選し、お金と時間を過分にかけた上で、初心者と同じノイジーなキタナイ音を出している自分にびっくりすることがあります。

ノイズが深ければ深いほど、終わった後の静寂は深くなる、と考えて見たらどうか?演奏とは、終演後に立ち上がるもの、と考えて見たらどうでしょう?

「人生はすべて即興なのに、舞台で即興をやる必要は無い」と土方巽さんは言ったそうです。とても示唆的です。「自由に」「勝手気ままに」演奏するなんて出来はしません。制約だらけです。まずは身体の限界があり、楽器の限界があり、能力の限界があり・・・自分を信じすぎるのもいい加減にしないとイケナイ。得意ネタを繰り返して、体力の限界までやったって本当の満足は出来ますまい。

信じるために疑い、それが発見のきっかけになれば、当たり前の逆転になったら素晴らしい。

オーソドックスな奏法でなく、奇抜な音や技法を使うのは、「当たり前」を疑う行為であれば良いのであって、なるべく奇抜なことをして受けを狙ったり、効果を狙ったりしたらダメでしょう。そうでないと、その技法を使って、想定した効果を上げるまでの時間は、その場に居ないことになり、場を壊してしまいます。最後には必ず脱ぐ想定をして白塗りをして褌をしている舞踏ダンサーが、エンディングを見計らって脱ぎ出す。それでは即興でも何でも無く、その時間を我が物として共演者を無視することになってします。

楽器を横にして演奏することがあります。いままで培ってきた「技法」が使えないことで、技法に対するクエスチョンになります。技法を使えないことでかえって純な音がでたりするのです。スティックで弦を叩きます。そこにはリズムにおける前拍をどうとるか、叩く位置によってどんな倍音がでるのかを発見します。「ビーティック」という箏の駒のような道具を差し挟みます。それは、弦楽器として叩く・擦る・弾くこと、その音程をどう取るか、などへの尽きない興味なのです。もう、40年近くやっていますので、私にとっては決して「特殊」技法ではなく、弓やピッチカートと同じレベルの技法になっています。

作品ならば作品でなくてはできないことを、即興なら即興で無ければできないことを目指すべきで、共演者とはできるだけ「同じ土俵」に立っていたいものです。完全即興に対しては完全即興で対応、作品や振付に対しては、作曲や技法の確定で対応したいのです。

ちょっと大げさに言えば、インプロは資本主義とも反しています。高い技術や、エンターテインしてもらった満足の対価にお金を払う、その人の商標にお金を払うこととも違っています。プロとは何?音って何?生きるってなに?そんなキビシイ条件に満ちた方法なのです。それでなければ達成できない何かを求めているのでしょう。

なんて偉そうに言っていると、何も出来なくなってしまうかも・・・

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