ドイツの病院は、二人部屋でも仕切りのカーテンがありません。(緊急治療部屋はさすがにありましたが)これはちょっとキツかったです。初日はおとなしいイタリア人でしたので良かったけれど、2日3日目は超大型のドイツ人、入れ墨満載、呼吸の音も動作もノイジー、中央にあるテレビを付けて大きな音でならし、自分は寝てしまう、起きると電気を煌々と付け、マイナス気温なのに窓を開ける、まあ、どの国にもいますね。早朝の教授回診は「白い巨塔」そのままでぞろぞろと大名行列のようでした。
昼食、みんな楽しみにしているようで朝、注文を取りにウエイトレスのような係りの人が回って来ます。レストランのような豪華な食事。(朝晩はキュウリとトマト一切れずつ、チーズとハムのスライス、パンのみです。配膳時間が担当によってまちまちなのも意外でした。)ちょっと不思議なのが、私の所にも砂糖を使ったデザートケーキやらヨーグルト、プリンなどが来るのです。ドイツなのだからキチンと処理されて、砂糖を使わない甘味料だろうと思っていたらそうでもなく、普通のものでした。自己責任ということなのでしょうか?ドイツの不思議に入りました。
詩人野村喜和夫さんがご自分の事をよく「国語国文学的身体」と言っていました。それをすこし意識することがありました。なにしろ「ドイツ語が分かりません」とさえ言えない私が一人でドイツの病院にいるということは、自意識過剰な若い頃には大変な事だったでしょう。今、ずうずうしくなって結構平気な自分。
旅人中谷達也さんに教えてもらった「梅干し純」を舐め、様々な詩の朗読を聴き(詩人ご本人の録音を中心にした貴重な録音を頂いたばかりでした。吉田一穂もあります!)、見舞いに来てくれる娘と日本語で話していると、自分自身が充足しているのが分かるのです。心臓の検査に行くベッドの中でも日本語の本などを読みます。国語や文化に守られている気さえします。
一冊しか持ってこなかった本は河野哲也さんの「境界の現象学」始原の海から流体の存在論へ〈筑摩書房〉でした。これも自閉症関連〜ミラーニューロン関連〜複雑系関連〜皮膚・膜・境界関連・当事者研究〜アフォーダンスから読み進んできた本の傾向です。ドクター・カメラマン・ベーシスト南谷洋策さんの紹介でした。
ヘスティアと ヘルメスの比較はカスタネダの「根を持つことと羽根を持つこと」に通じ、ギリシャの犬哲学者ディオゲネスは現在東京で個展を開催中のマレー人ザイ・クーニンを思い出し、食べること食べられることでは宮沢賢治を想起し、人間の本質は動くことと創造することという説、ハンナ・アーレントが「労働」「仕事」「活動」にわけたこと、無意味の意味、移動すること、盗むこと、コスモポリタン、ファッションなど読み手の思考を翻弄します。
自分の人生以上の長さに帰属したいという「仕事」(ちゃんと基礎を持ち、伝統に連なり、かつ未来を予見する)と、常に移動しながら無意味とも思えることをやりつづける「活動」、即興演奏がもつ二面性と鏡のようです。
有り余る知識を自由気ままに使っている印象もありますが、新しい気づきも多い本でした。とまれ如何なる時も開くこと、これが大事です。
気が重くなるような写真ばかりだったので、ちょっと気分転換。今回の音楽グループリハ風景とラジオフランススタジオで次に出演するグループがマウリシオ・カーゲル作品で使うハンマーを発見。我々が黙っているわけはありません。結局こういうことに。