金曜に迫ったバッハ演奏は、いろいろ考えるきっかけになっています。
西洋楽器および弦・弓・松脂はだんだんとソフィスティケートしていき、その分、いろいろな演奏法が可能になり、作曲家も演奏家もそれを元に活動しています。教育においても、伝播においても、拡散においても、ある程度の普遍性を獲得し、はっきり安定した音程を提供できるようにして、四分音でも安定して出せるようになっています。(それを使って逆に「民族音楽」のような微妙な音程を出すことさえ出来ます)
演奏においても、楽器製作・修理においても、弓においても、ヴィオラはヴァイオリンを目指し、チェロはヴィオラをさらにはヴァイオリンを目指し、コントラバスはチェロを、ヴィオラを、ヴァイオリンを目指すのが一つの大きな流れです。(流れには理由があるのです。)
なのに:
私のガット弦へのこだわりはどこから来ている?
コントラバスというものは「倍音」と「雑音」が最大の特徴だ、という私のコントラバス観は、かなり変わっていると言わざるを得ません。(リッチモンドでのISBコンヴェンションでテッポ・アホさんに「熱でもあるんじゃない?」と言われ、おでこを触られました。)
それは楽器の「発達」と逆行し、謂わば、民族楽器に戻る方向です。現代日本の民族楽器たるには何が求められるのか?そうすれば邦楽器と対抗できるのか?
そんな指向・嗜好をもってバッハを弾くことにどんな意味がある?
チェロの場合でも1日に3曲が通例だし・・・(6曲全曲演奏は2日に分ける)
チェロの名曲をノイジーな低音でやったって何になる?
ほとんど試されたことの無い方法(プレーンガット、コントラバス、移調もの)というのは、ちゃんとした理由があるから、やられていないのです、ハイ。それをなぜ?
練習では、毎回発見があり、その度に本人はとても面白いです。
低音というのは迫力で出すものでなく、やさしく弱音で出すというのは最大の発見の一つでした。
6番は1~5番と違う構造と音楽を持っていてどうしても違う音楽に聞こえてしまう。
5番のプレリュードだけなぜ長い?
バッハ30歳代の作品であること、舞曲の側面を強調すること・・・
1番低い弦(E線)は、本来コントラバスには無かった(3弦が主流でした)のに、綱のような弦を鳴らすのは大変ですが、そこはかとないユーモアさえ感じることができるのです。
実は、もう十分に元は取った気がしています。
ISB(国際ベーシスト協会)ロチェスターコンベンションでデビッド・マレー(サックス奏者でないよ)さんがバッハ無伴奏を使ってダンスの講義をしていて私も参加しました。参加者(ほとんどベーシスト、ベースアンサンブル弦311のメンバーも参加)が何重もの円になりバロックダンスを踊り、デビッドさんが中心でバッハ無伴奏を弾くのです。フォークダンスのようでした。