ず〜っと前にはこんな前史があります。
ソウル公演への期待その2:
学生の頃、第2外国語を何にしようかと迷っていて、フランス語やドイツ語の先生があまり好きな感じでなく困っていました。その時、なぜかこの時期だけ韓国語が第2外国語として認められていました。(その後廃止)ペヨンジュンさん以降の今とは全く違う状況で、辞書さえ選択肢がなかったころです。おもしろがって勉強し、戒厳令下の韓国も訪問(何と、関釜フェリーに国鉄の学割が使えた頃です)。道を聞かれて答えることが出来ました。今はまったく忘れてしまっています。(同じクラスで韓国語を学んでいた友人は読売新聞のソウル支局長になり論説委員になっています。)金芝河さん投獄も早川・太刀川さん事件もユンイサンさんも、金大中拉致事件も日常に起こっていることでした。
時は、内ゲバ殺人がキャンパスで起こっていて、一方、ぼんくら学生でも一流企業に就職できたころです。私は鶴見和子さんのゼミに参加し、南方熊楠・エコロジー・水俣などを学んでいました。後藤新平の孫娘である鶴見さんからは自由なアカデミズムの感覚を学びましたが、リベラルの限界も学んでいました。選んだ卒論が日本近代史と韓国の関係でした。研究を続けてアカデミズムに残るように言われましたが、なぜか「ベース」を選びました。
まさか自分が音楽を選び、韓国音楽と共演することが私のキャリアで重要になるなんて世の中分からないものです。だから人生やめられない!
音楽活動を始めてから、際どい音楽ばかりやっていて、身も心もちょっと疲れていました。効果ばかり求め、効果のための効果になっていて、聴衆を驚かすことが歓びに成っていたのです。ビー玉を投げたり、電気あんまをエレキギターに当てたり、ブリキの板を長いビスで擦って耳をつんざく音を出したり・・・・そんな時、出会ったのが韓国伝統音楽だったのです。
当時の私は「音楽は素材を合わせればできる」と不遜にも思っていたのですが、韓国伝統音楽では、たとえ1小節のリズムパターンでも意味があり、このリズムはこういう時に使うということがハッキリしています。このレッスンはとても大きなものでした。CD「神命」録音の時に居並ぶ金石出・安淑善・李光寿さんに対して音を出すと言うことがどれだけ重要なことか、一瞬で分かったのです。私には人生の授業料が圧倒的に足りない。そして、どんなに効果的でなくてもズンズンとベースを弾くということに立ち戻ることが出来たのです。
韓国伝統音楽に感じたものは「健康」さ、「信じる」ことだったのです。音楽を信じ、言葉を信じ、愛情を信じ、人生を信じること。それこそ当時の私に欠けていました。
特にシャーマン音楽は、自己表現ではなく、場を成り立たせる音楽でした。「くっ」というお祭りのための音楽です。それも大きなレッスンでした。ジャズ的なもの、ソロとバックという考え、とまさに好対照です。個人の表現と全体の表現、戦後アメリカのエンターテインメント的考え方に対する第三世界からの提案だったのかと思います。それはいまも続き、インプロにも繋がります。
そのお礼を込めて書いた曲が「Stone Out」でした。いまだに、これが一番良いと言ってくれる人が多いです。この曲は箏ボルテックス(西陽子・竹澤悦子・丸田美紀・八木美知依)の委嘱でしたが、CD録音は私・黒田京子・伊藤啓太が参加。その後、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、ベースアンサンブル弦311、ユーラシアンエコーズ第2章などなどで演奏し続けています。
レコード会社との軋轢から韓国と没交渉となってしまい、15年位ご無沙汰でした。再会の切っ掛けは南貞鎬さん(ダンサー)でした。なんと、「いずるば」でのジャンさん体操・気の道ワークショップに南貞鎬さんが来たのです。パリでジャンさんと同じ先生に習っていたとの縁でした。南さんとの共演が再開し、自然にジャンさんと誘い、元一さんを誘い、カルテットとしてソウル公演・アヴィニオン公演をしました。私はデュオでルーマニア公演もしています。
いろいろな流れが整理され、今回のソウル公演になったと思うと感慨無量です。