ポレポレ坐 「土神と狐」顛末

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15日(金)「土神と狐」宮沢賢治作 東中野ポレポレ坐

昨年12月12日大船の「山の上ギャラリー」で初演・好評を得たものの再演です。
今年に入って稽古も進み、読み込みも変化、演技も音楽も変化しています。
なお、開場時間の18:30ころから画家・小林裕児さんが背景の絵を描き始めます。私も参加します。
開演時間の19:00ころには女優・内田慈さんも何らかのカタチで参加、描き終わった時点で本編の開始になります。
多少混み合うことも予想されますので、お出での皆さまはお早めが良いかと思います。

■日時:2016年1月15日(金)18:30 open /19:00 start
■出演: 内田 慈(女優)齋藤 徹(コントラバス奏者・作曲家)小林裕児(絵画)
■演出 :広田淳一(劇作家・演出家、劇団アマヤドリ主宰)
■料金:予約:3,000円/当日:3,500円(ワンドリンク付)
■予約:Tel:03-3227-1405(ポレポレタイムス社)Mail:event@polepoletimes.jp

音楽と読み語りによる宮沢賢治「土神と狐」
—-二人はごうごう鳴って汽車のように走りました。—-
宮澤賢治の『土神ときつね』は、「一本木の野原の、北のはずれ」を舞台にした、
短いけれどピリリと刺激の効いたお話です。趣味がよくってカッコいいけどちょっぴりウソつきな「きつね」と、
粗野で怒りん坊だけど正直者の「土神」が、奇麗な女の「樺の木」を巡っておりなす恋と嫉妬の物語。
キラキラした理想と、どろどろとした現実が行き交う好短編は、画家・小林裕児の世界とどこか響きあうものを持っています。

と、今回はそんなお話を女優・内田慈が一人語りでお送りいたします!
演奏にコントラバス奏者の齋藤徹を迎え、音楽劇仕立てで三者のぐるぐるを語ります。
しゃべって、歌って、ちょっと踊って、音楽と美術に彩ろられたにぎやかな一夜を、どうぞお見逃しなく! (広田淳一)

⭐︎内田慈(女優)
1983年神奈川県出身。小劇場から商業演劇まで幅広く活躍する、実力派舞台女優のひとり。
最近の出演作は、舞台NODA・MAP「エッグ」、「ガラスの仮面」、ブス会*「女のみち2012 再演」、「サイケデリックペイン」、井上ひさし追悼公演「黙阿彌オペラ」映画「きみはいい子」(呉美保監督)、「恋人たち」(橋口亮輔監督)、他。朝の連続テレビ小説「まれ」移住者の京極ミズハ役。また、幼児向けテレビ番組「みいつけた!」(Eテレ)では人気キャラクター・デテコの声を担当するなど、ナレーションの仕事も数多くおこなっている。
⭐︎齋藤徹(コントラバス奏者・作曲家)
舞踊・演劇・美術・映像・詩・書・邦楽・雅楽・能楽・西洋クラシック音楽・現代音楽・タンゴ・ジャズ・インプロビゼーション・韓国文化・アジアのシャーマニズムなど様々なジャンルと積極的に交流。ヨーロッパ、アジア、南北アメリカで演奏・CD・DVD制作。コントラバスの国際フェスティバルにも数多く参加。コントラバス音楽のための作曲・演奏・ワークショップを行う。齋藤徹・喜多直毅・さとうじゅんこの「うたをさがしてトリオ」では2作のCDを発表。自主レーベルTravessia主宰。
⭐︎広田淳一(劇作家・演出家、劇団アマヤドリ主宰)
1978年東京生まれ。劇作家・演出家、アマヤドリ主宰。2001年に劇団を旗揚げして以降、全作品で脚本・演出を担当。さりげない日常会話ときらびやかな詩的言語を駆使し、
近年は社会問題にも深くコミットした骨太な作品を発表。随所にクラッピングや群舞など音楽・ダンス的な要素も取り入れ、身体と空間、テキストのぶつかり合う舞台を志向している。
⭐︎小林裕児(画家)
1948年東京生まれ。1989年にそれまでのテンペラによる細密な画風を転換、大胆な色面と単純化された線による象徴化されたイメージを生み出した。1996年「夢酔」で第39回安井賞を受賞。現在、国内外で多数の個展、グループ展を行うほか、1999年に齋藤徹氏と共にスタートしたライブペインティングをはじめとした様々なイヴェントでは国内外の音楽家、ダンサー、演劇人とのコラボレーションを行い観客とともにある美術の新しい楽しみ方を模索している。一般社団法人春陽会会員、多摩美術大学教授 日本美術家連盟委員

 

 

そして、実施後のFB投稿は↓でした。

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韓国大使館領事部で無事に公演VISAを受け取りホッと一息してポレポレ坐へ直行しました。

昨日まで稽古をしていたので、内容には問題有りません。滅多に無い問題は予約のお客様が多くて(80以上)仕切りのドアを開けておかねばならないことでした。世の中バランス悪いです。聴衆集めにヒーヒーしているかと思うと本日のように入りきれない状況とは・・・。

裕児さんが大きな紙でバックを埋めて、その上に描く用の古紙を貼りました。これだけでも1時間弱、そそくさと本編の60%くらいをリハーサルして本番です。開場してから絵を描き始めて開演とともに描き終わる予定でしたが、どうも15分くらいは余計にかかりそうなので、客入れ前から裕児さんと私は開始しました。

演劇の内容に遠い演奏をしなければならないし、40分~45分、ということで、宮沢賢治さんでもあるし、バッハの無伴奏チェロ組曲の一番と二番を全曲弾きました。(ゴーシュでお馴染みの賢治さんは高級なチェロを所有していたそうです。)すると天の采配と申しますか、二番がちょうど終わったところで裕児さんも筆を置きました。嬉しいものですし、ビックリするし、もう今日は大丈夫だ、と思います。3枚の絵もそれはそれは見事なものでした。

日常の真ん中から日常を身にまとってワサワサとやってくる聴衆は、「何?何かやっているし・・、始まってるの?えっ何?」。絵がだんだんとできつつあると、少しずつ会場全体が集中してきます。画家が絵を描くのなど観たことある人はほとんどいないわけです。コントラバスで下手くそにバッハのチェロ曲を弾く男と絵を描く男、もうすでに「日常」ではあり得ません。私は2カ所暗譜が不安になり崩壊しそうになりましたが、音楽に集中するより絵に注意を向けて半眼微笑で行くと問題無く進むことができました。

舞台美術ができあがると、慈さんにボディペイントを施します。そして絵の具などの片付け、この間は無音。何かが始まる感がいやが上にも高まります。

さて、演劇の開始です。この二ヶ月間、慣れ親しんだ文章ですが、「まるで初めてのように」演奏していきます。これ以上の掟はありません。役者が、聴衆との繋がりをとても大事にしていくところが、リハーサルと大いに違う所です。このあたり演奏と大きく違います。

「何が最低条件か?」「何が無いと成り立たないか?」という話でいうと、音楽は聴衆がいなくても成り立つけれど、演劇は聴衆がいないと成立しないのでは無いか、と考えたことがありました。人間生活の多くを雑多に取り込んだ演劇の強さ(弱さでもある?)。

慈さんの演技が聴衆の共感と共に熱を帯びてきます。そうすると私は「演者と聴衆の間」にいることなど許されなくなり、慈さんとガップリと共演するものとして舞台にいることに相成ります。観られ、聴かれる存在になっているのが体感されるのです。

聴衆の反応は前回とまったく違います。「受ける」ところが全く違います。慈さんはそれを感じながら修正していきます。その時その場の聴衆・会場というアフォーダンスに応じて「即興」するわけですね。「規則に沿わないこと」「作品でないもの」を即興と言うわけでは無いのです。すべての演技、演奏は即興的に展開されます。人生そのものが即興なわけです(土方巽)。

韓国からダンサー南貞鎬さん、ちょっと出演した映画「東京人間喜劇」の監督・深田晃司さん、デュッセルドルフから皆藤千香子さん、本日からコントラバスをお貸しするロシア人ウラジミール・Kudrtavtsevさん(あっ、読めない)、いろいろな人と会いました。演劇ならではのことなのでしょう。雑多、猥雑、セラヴィ、業の肯定です。

慈さんが何回も言っていました「これこそおとなの遊び」です。子供は家に帰ってゲームしたり、テレビでも観てなさい。こういう贅沢はオトナに許された特権です。オトナが遊ばなくてどうする?

子供の財布を当てにした文化ではなく、オトナが心から遊べる状況にしなければ東京は生き残れません。目標はイタリアのいい加減さ、なのかもしれません。いい加減は良い加減です。格差社会がどんどん拡がっていくのは目に見えています。その流れは止めようがアリマセン。そういう社会でお互いに競い合ったらヤツらの思うツボです。負けを重ね、ダメな自分を再確認し続けることになります。そこに陥らず、だらしなく、好い加減にくだを巻いて、遊び、歌うのです。

本来、遊びとは神にのみ許されたものでした。それをヒトが真似をするのです。ホモ・ルーデンス。心して徹底しましょう。

そんなことを再確認した豊かな1日でした。ありがとうございました!

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