「7日の7時にポレポレに来てくれさえすれば良いです。お願いします。」と言われても、当日になるとなんとも落ち着かず、あ〜止せば良かったなどと思いながら、とてもしらふでは居られないのでワインを引っかけてポレポレ坐へ向かいました。(行かなかったらどうなるでしょう、などと想像しながら・・)
行ってみれば、一刻一刻が気持ちを揺さぶられっぱなしの2時間半でした。心のこもった繊細な成り立ち(実行委員会:喜多直毅・さとうじゅんこ・田辺和弘・田嶋真佐雄・齋藤真妃)で私はただただニヤニヤしていれば良いのでした。来し方を思い、心の振れ幅は相当なものがあり、今時点でもまだ揺れているようです。まさにグラシアス・ア・ラ・ヴィーダ(ありがとう命)でした。全く不遜ですが、「これでいいのだ」とバカボンのパパのように言ってみたい気がすこ〜しだけ心を横切りました。
北海道・大阪・愛知・広島・パリ・ケルン・ブッパタール・ケープタウン・カリフォルニア・トゥーロン・サンシルバンからのVideoメッセージには本当にビックリしました。多くのメールメッセージ、マレーシアからは長文のメッセージが届いていました。
挨拶でもちょっと述べましたが「毎日が誰かの誕生日で誰かの命日で」、前日が今年亡くなった幼稚園の同級生詩人の誕生日、Videoにも出てくれた同じ誕生日のバールさんは81歳にして病気克服・現場復帰、8日はトラ・トラ・トラ、レノンの命日、10日は親しかった箏奏者の命日であり同日にNaël王子が生まれました。私と全く同じ(歳も)誕生日のある方は、私同様昨年大病を患いましたが、(私同様)自力を信じ、院内1万歩を敢行、病気は去ったということです。新しい命の映像もパリから、そして、実際の赤ちゃんも来てくれました。また、当日ご家族が急病で来ることが出来なかった方、酷い風邪を引いてしまいポレポレの入り口で顔だけだして帰って行った方、様々な人生模様の一日だったのです。セ・ラ・ヴィ。
私の自主レーベルの名前トラヴェシアは(もちろん)ミウトン・ナシメントの曲から取りました。英語の歌詞からピッタリと思って名づけました。(ポル語ができないため)
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私は確かなものをつかもうと幾千もの橋を渡ってきました。
蜘蛛の巣のような鋼鉄の吊り橋もあったし、木でできたちゃちなものもありました。
石でできたものもありました。
わたしはいつでも「よそもの」であり、孤独でした。
明日に繋がる橋、
過去からの橋、
哀しみでできた橋(長く続かないように願う)
天空にある色でできた橋
私たちの愛でできた橋だってあるはず。
川の向こう岸の遠くに彼女が見えます。
私がかつてやったように、彼女は願いを込めて手を差し伸べています。
橋があると信じる場所を教えようと彼女に声をかけます。
私は見つけるでしょう。
そう、私は見つけるのです。
私が死ぬまで探し続ければ・・・
私たちの間に橋があるならば、怖れるものはない。
太陽の下、駆けよって途中で会えます。
天空にある色でできた橋
愛でできた橋がどこかにあると固く信じています。
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オリジナルのポルトガル語の歌詞は大分違っているようです。しかし良いのです。動機はこれです。人と人・時と時・場所と場所を繋ぐ架け橋をこそ残された時間のミッションにしていきたいです。
音楽とダンスのコーナーでは、サイトウ記念オーケストラ?でコントラバス・ピアノ・サックス・アコーディオン・バンドネオン・うたが私の曲を演奏してくれました。もう忘れてしまった部分もあり、作ったときのことも思い出され、またまた大きく揺さぶられました。「よみがえりの花が咲く」の後半部分では私に歌うように促され、ここで断ってはイカンと、歌いました。フラメンコダンサーに誘われダンスまで踊りました。光栄でした。ちょっと驚いたのは、5拍子のところで会場全体が、キッチリと5拍子の手拍子をしていることでした。さすが〜!ピアニストの謡「高砂」も嬉しかったです。
5年前だとしたら、こういうカタチはあり得なかったでしょう。特に「うた」はなかったでしょう。お集まりいただいた方もここ5年の知り合いが多かったです。(もちろん何十年もの友人もいらっしゃいました。)それを考えると5年先だとまた顔ぶれも内容も違っているのでしょう。今・ここで会えている奇蹟と幸運を歓ぶことしかありません。
写真は翌日のエアジンでのLIVEの時にカメラマン荒谷さんが撮ってくれました。私の代わりに赤い帽子とちゃんちゃんこを着ている「バール」ライオンです。これからもよろしく。