横濱エアジンで四季ごとに行っている矢萩竜太郎・庄﨑隆志さんとのセッション、その「秋」が終了しました。今回のゲストは聾の女優高橋愛さん。四季(夏)では客席に入らしてましたし、昨年の竜太郎10番勝負!にも出演。私とは、セバスチャン・グラムスとのDouble the double bassツアー、スーパーデラックスでの8台のコントラバスとのセッション、および今年7月の「ハムレット」と共演が続いています。
今回も、「気づき」がいくつもいくつも訪れました。いまもその渦のなかにいます。
こんな世の中ですので、涙と笑いが大事にされることは分かります。笑いも涙も大事なものですが、敢えて、疑問を提示したい気持ちも時々出てきます。否定するのでは無く、よりハッキリ認識したいからです。
泣けてきました、というのを自分の感情のほとんど最高位に置くような言葉をよく耳にします。「感動して涙が止まりませんでした」とか。しかし、泣いてしまった自分に感動していることはないでしょうか?そこでのカタルシスはそれ以上の思考や感情をかえって否定してしまうことはないでしょうか?そこで終わってしまうことは何かをないがしろにしてしまうことは無いか?と思ってしまいます。冷淡になれ、と言っているのではありません。より熱い涙を流すために、そして自分の涙に騙されないために私はいつも思い起こすことにしています。
笑いもそうです。テレビを観ていたころ、笑いの音源を流して、笑いを誘発させるテクニックがよくありました。笑いに乗り遅れずにその場を楽しく過ごすという「空気」を読むのと近いです。笑いを誘うことを人より早く判断することの優位のようなものさえ感じます。笑いそのものはミラーニューロンから言っても悪いことではありませんが、本来の笑いと遠くなることもあるのです。決して人を馬鹿にする笑いではありません。(ジャン・サスポータスが言っていましたが)「カフェ・ミュラー」で椅子をどけるシーンに、特にアメリカでは「笑い」が起こったそうです。これは「笑かす」シーンであると判断し我先に笑い、会場全体をそういうエンターテイメントの空間にするのが「正しい観客」である、ということかと思います。
エアジンでも笑いを誘発するような笑いが出ては消えていきました。時に聴衆の賛同を得て大きな笑いになったりもしました。
台風が二つ来て、やっと通過した直後、湿度100% の中、足を運んでくださった聴衆の皆さんにとっても朗らかに笑いが渦巻く楽しいライブを求めるのはあたりまえです。
庄﨑さんにしても愛さんにしても、人生の授業料は十分払い済みですので、笑いが上滑りをすることはあまり無いようです。我が弟、竜太郎さんはちょっと違います。彼にしても人生の授業料は払い済みです。
彼のダンスの魅力はいろいろあります。最近、私が気がついたのですが、かれの踊りがすばらしいのはその動機が「怒り」だったり「くやしさ」だったりするところです。それが昇華したときの彼のダンスは尊く、気高いものがあります。昇華すると、その空間にいる全ての人に福音を与え一体感を味わうことになるのです。それが一本締めになるのです。
ダウン症のダンスは「無垢・イノセント」な表現と片付けるのではなく、楽しければ良いじゃん、ではなく、彼が踊らざるを得ない動機・閃きの源泉に思いを馳せることが兄としては必要であり、そうすることで彼自身が解放され、空間が解放されるのです。チープな笑いで終わらせてはイケナイと兄は思うのでした。
笑いと涙に注意報。