ブームが何回も来て、その度毎に世の中を荒らして去って行っても、タンゴに憑かれた人が必ず何人か残る、日本はそんな国のようです。他では収まりきらない、名づけようのないある種の感情をしっかと受け止めてくれるのでしょうか?男の女々しい泣き歌、演歌(古賀政男)との共通性などもあるでしょうか?
SPレコード収集家から、ガルデル命、ピアソラ命、さらにミロンガ通いの男女までさまざまです。30年前にブエノス・アイレスに行ったとき聞いた話だと、プグリエーセ楽団でも、観光客用のLIVEをやった後に、夜中にまた集合して地元の人たち用のミロンガをやるとのこと。ちゃんと使い分けていたのです。そんなことを思い出しました。
昨今の日本のミロンガだって、見栄っ張りや寂しがり屋の集いに留まるどころか、「ええじゃないか」に繋がる可能性さえ宿しているのかも知れません。「荒ぶる」ココロが突然出てきて喜怒哀楽に収まらずとりあえず「踊っちゃう」。嘘や偽りだらけでどんどん貧しくなる世の中で何を信じれば良いのかわからず、とりあえず「踊っちゃえ」。ばかやろ〜、やってられるかよ。
ピナ・バウシュの衣装(ロングドレスやスーツ)が、ピナが本質的に持っている自由や反権力への意思と無関係なように、タンゴのキレイなおべべやポマードベタベタやちょっとイヤミにセクシーであっても逆転するベクトルを内在していることもありえます。おしゃれなピナ、おしゃれなタンゴは、方法であって目的ではありません。ちょうどこの日が沖縄慰霊の日でもあり、高柳昌行さん命日でもあることも共存できるのでしょう。
プグリエーセは自分こそ本当のコミュニストであると最後まで言っていましたし、実際、キューバやソ連へのツアーは何回も行っています。しかし、面白いことに「日本にこそ本当のコミュニズムがある」と言うのが自説でした。また、警察の内部にもプグリエーセ信奉者が何人もいて、本日手入れがあるという情報を得ると、その警官がプグリエーセが弾くピアノの上に赤いバラを置いたそうです。それを見て彼はそのまま雲隠れ。コロン劇場のプグリエーセのジャケットのバラはその意味も含まれているとのこと。
そんな人達が梁山泊のごとくに先日のエル・チョクロに集合したのかも知れません。
TLFのレパートリーは、プグリエーセ・ダリエンソものが毎回増えてきます。谷本さんの身体性が強調され、床を踏みならし、決してじっとしていません。「ブエノスアイレスのミロンガでの経験で演奏そのものが根本的に変わった気がする」というのも納得です。かといってイケイケだけではなく、「レクエルド」で微弱音へ誘うと、もう聞こえなくてもいい、いや、このまま消えてしまってもいいというところも現出。新たなダイナミックスも発見していたのです。いや〜欲の深いトリオですな。