もう一つのインプロヴィゼーション いっぽはみだすために(3)
いっぽふみだす・はみだす、ということは「視点をずらす」「視点を変える」こととも言えるでしょう。「あたりまえ」のことを疑うこととも近い。「あたりまえ」ということで脳は停止してしまう癖があると言います。耽溺することからも離れたいものです。
さらにすすめると「意味」に縛られない、意味に囚われる前は何だったのか?
娘が言葉を覚えたてのころに「意味」の遊びをしました。たとえば食卓のスプーンをスプーンと言わずに他の単語で置き換えるのです。その置き換えた単語との距離が遠いととても愉快です。言葉=意味に囚われている時間の長い私は、いつも娘に負けていました。私は突拍子もないことがなかなか言えませんが娘はどんどん遊んでいく、飛んでいくのです。
言葉を覚える以前の赤ちゃんだともってスゴイですよね。ダイヤモンドと石ころの差がないわけです。歴史的楽器もオモチャの楽器も同じ。
かつて読んだカスタネダの本には「トナール」「ナワール」という概念がありましっけ。
焦点をあわせることから意味が発生してしまう、焦点を合わさずに全体を観る、感じる。文字をみてもデザインにしか見えないところまで持って行く。意味の分からない外国語が音楽に聞こえるように。吉田一穂の「半眼微笑」も有効な方法となって現れてきます。
インプロヴィゼーションはその領域とも近いと言えます。膨大な時間とお金をかけてさんざん楽器の練習をして、高価な楽器を手に入れ、松脂・弦・弓・毛・備品は厳選に厳選を重ね、膨大な音楽を聴き続けたあげくに楽器を触ったことのない人と同じようなノイズをだすわけですからね〜。
バール・フィリップスさんと即興の話をしていて「もしかしたら即興とは不可能性の表現かもしれない」という話になったことがあります。土方巽さんは「人生そのものが即興なのだから、舞台で即興をする必要なない」と言ったそうです。含蓄がありますね。
「もう一つのインプロヴィゼーション」と名づけた理由もこの辺のことをもういっぺん考えて見たかった、共演者・聴衆・スタッフと一緒に感じたかったのです。
現在、多くのインプロヴィゼーション(音楽・美術・ダンス・パフォーマンスなど)が毎日毎日あちこちで行われています。
日常生活においても、おおくがインプロヴィゼーションでしょう。ひとつひとつの判断の時にインプロしていく、料理でも掃除でも歩くのでもなんでも・・・
なんちゃってインプロヴィゼーションから、百戦錬磨のミュージシャン・ダンサーたちの洗練されたインプロ、特殊技法の羅列のインプロ、鈴木昭男さんのように音楽からも遠く離れてしまうようなインプロ、まさにいろいろです。
一つ言えるのはインプロの対義語が「作品」ではないということです。インプロの対義語は「常識」であり、さらにいえば「自分自身」なのでしょう。
このツアーでそんなことを感じてみたいのです。
このツアーは前半と後半に別れ、前半ではジャン・徹にウテ、ヴォルフガングが加わりさらに場所によってはゲストも加わり東京・京都と行われます。後半はジャン・徹にゲストが加わり東京・北海道と回ります。
是非、ご来場の検討をお願いいたします。