にわかランナーの思いつき・・・その3

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「もっともっと」を求めて無理をして怪我をするということは、現代、たくさんのことにあてはまるのでは、と思うようになってきています。

「欲」が動機となって行動することは誰しも否定できません。その「欲」やら「効果」やらの実質が皮相なものだから良くない結果が起きるのかもしれません。若いときはなおさら起こりがち。

「工夫」をするのも「効果」を上げるためだったのですが、原水爆を発明してしまい、人類を何回も全滅できる方法まで持ってしまいました。使えない兵器を作り、売り、買う。タルコフスキーの「ストーカー」で科学者に対して、科学は結局、楽に多くのものを得たいだけじゃないか・・・という台詞がありました。

本質を伝えるための「効果」が「効果のための効果」になってしまい、分けがわからなくなってしまった音響技術。若い人達の催し物に行って、そのあまりの大音量が突発性難聴の引き金になってしまった私としては、ああいう大音量は冗談で無く「恐怖」そのものです。効果などではありません。

ダンスがブームになっている遠因は、人の身体が「限界だらけだから」ということも有るような気がします。ツマミを回せばいくらでも大きくなったり、変調したりできる「効果」にどこかで辟易している「自然としての身体」が、ジタバタしか出来ない身体のリアリティの共感を求めているのかもしれません。アコースティック楽器による演奏が無くならないのもそのためなのでしょう。「癒やし」などではありません。

「もっともっと」を諫める知恵として「老人力」(赤瀬川原平)があるという仮説さえ成り立つ気がします。

クラーク博士の「少年よ、大志を抱け」は、続きに「お金のためではなく、私欲のためでもなく、名声という空虚な志のためでもなく、人はいかにあるべきか、その道を全うするために、大志を抱け」と続き、さらには「老人のように死生観を持ちながら1日1日を大事に生きなさい」という意味があると言います。メメントモリです。

直ぐに連想するのは「健全な肉体に、健全な精神が宿る」ということわざです。太宰治の小説にこれは願望なのだと、書いてあった記憶があります。すなわち「健全な肉体に健全な精神が宿ればいいのになあ」と。たしかに運動部員の不祥事はいくらでもあるし、権力志向・差別主義・業績主義の人は多いし、プロスポーツ選手出身で右翼系・保守系参議院議員になる人をいやってほど見てきました。

ネットで探ってみると、「金持ちになること、地位を得ること、才能をのぞむこと、栄光、長生き、美貌、いずれも願うべきでない、これらはいずれ身の破滅をもたらすから。もし願うとしたら「心身ともに健康であること」ぐらいにしておきなさい。その程度を願うのなら不幸になることもない。大きなことを願うべきでない。」というのが原意らしいです。

ゆっくりと走りながらだとあれこれ考えが巡ります。今は、老人力を発揮して、走る日と歩く日と歩きも走りもしない日をほぼ均等に取っています。「もっともっと」を止めるのも知恵です。

写真は高橋睦治さんのコントラバス作品「この地で、この地から。In this place,
from this place.」

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