キッドアイラックホールでの喜多直毅さんとのデュオ録音を聴きました。録音の市村隼人さんの仕事ぶりには感服しました。場所と音を知るためにと言って、前回私が同会場で演奏した時(ジャン、じゅんこ、田嶋、田辺、徹での「花よりタンゴ」の会)に試し録りをしにきました。もちろんその時はノーギャラ。さて当日、ピンクフロイドがよく使っていたというロシア製のマイクをメインにキッドの高さを活かしたアンビエンス録りのマイクが意外なところにセッティングされています。ロシア好きの直毅さんはそれだけでもキュンとしています。
とても暑い日でした。クーラーの音も気になるので、1時間1ステージの予定を30分2ステージにして開演前、休憩時にクーラーを回すということにしました。キッドの生音の響きは都内でも屈指の素晴らしさなのですが、照明卓の冷却ファンの音が多少目立ちます。演劇公演が多いために照明効果を上げるためには必要なことなのでしょう。音響が良いために余計に目立ってしまいます。
市村さんは粘り強く交渉して、開場10分前に照明スタッフ(工藤さん)が照明卓を使わない方法に切り替えてくださいました。ありがとうございました。
こういう一つ一つが大事なのです。どこかに方法はあるのです。
さてさて音はどうだったか?
直毅さんのバイオリンも私のコントラバスも上の3本はプレーンガット、残りの1本が金属巻のガット、私の記憶の中では最高度にガットの音が捉えられています。それだけで私は嬉しい。私はA線の生ガットを羊から牛に替えてみました。この楽器には牛のA線のほうがフィットしています。
というわけで羊2本(Toro製)・牛2本(Gamut製)でした。なにをトリビアなことを!とお叱りがあるかもしれませんが、こちらも本気と書いてマジです。
かつて今井和雄さんとの「Orbit ZERO」を出したときにこう書きました。
「何で、こんなことになっちまったのだろう?
貴重な楽器や弓を手に入れて、弦もピックも松脂も諸パーツも厳選して、イヤって言うほど練習をして、イヤって言うほどの世界中の音楽を聴いて、いろいろな所に旅して、家族ももって、余裕のないくらしをして、「この音」だぜ。「普通の」音なんかほとんどありゃしない。誰だってできるんじゃない?」
この文章を思い出しました。今井さんの時と違って、メロディやリズムがでてくることも怖れずにやったという印象があります。それにしても実際「変な」音が多い。
自分なりに理由を考えて見ると3つ思い浮かびます。
1:楽器の特徴
弦楽器、特に擦弦楽器の音色・奏法は他の楽器にはありえないほど豊富。簡単に言うと、いろいろな奏法が可能、いろいろな音がでるのです。また、楽器自体が「完成」されているので「強い」。だいたい何をやっても平気なのです。私の楽器奏法を危惧する人は多いですが、バチで叩いているのはほとんど弦です。本体は大事にしていますよ~。私よりよっぽど偉いのですから当然です。私の残りの演奏可能期間より長生きするこの楽器。高価ですが、買った時の値段(以上)で売ることが出来ます。(10年で価値の無くなる自動車とは違います。バイオリンはもっと大変だ!)自分の演奏できる間、預かっているだけなのです。次に託す人を見つけることが大事な仕事になります。ダライラマのように突然、どこかに現れるのでしょうか?
2:終演後の沈黙を深くするため。
音楽は沈黙と拮抗するもの、対峙するものです。上記の照明卓ファンの話でもありましたが、どんなに小さな音でも鳴っていると沈黙では無くなります。完全な沈黙というのは現実にはアリエナイのでしょうが、(無音室)できるだけゼロにしたいです。
音楽を演奏するのは、音楽が演奏されている時間の歓びや恍惚(時の流れを止める!)という感覚も充分理解出来ますし、そういう至福の体験が何回もあります。その感動が深ければ深いほど終わった時の沈黙が深くなります。音に感動したとき後、だれと話すのも、アンケートを書くのもイヤでそそくさと帰りたい気持ちになります。
音楽を聴く前と聴いた後と違う自分になっているわけです。
そして「ノイズ」、特に自然素材の中に含まれているノイズ(モーターの回転によるノイズとちがって)は気持ちや記憶をえぐります。その深さが直接終わった後の沈黙の深さに影響していると考えることが出来ないか?
「キレイ」なだけの演奏にはない経験ができるのではないか?という仮定です。
3:「効果音」と「ホントウの音」
といっても、音には違いはありません。猫がピアノの上を歩いたのも、50年研鑽を積んだ人の演奏でも同じです。たしかに「インプロ」の場合は2~3分くらいの演奏ではプロがシロートの演奏に「負けちゃった」りすることもあるでしょう。
「効果」とは「本質」をよりよく伝えるためのものであるはずですが、現代は本質は相手にされず、効果のための効果がもてはやされます。しかし音としては同じ。「音」に「心」をつけて初めて「意」になるわけです。
ここで音を出す人が問われてくる。効果音としてその音をだす人と、その音を自分の全てを信じて(賭けて)出す人とは「違う」はずです。いや、違うと信じたい。すなわち、どの人を通してその音が出てきたかということで変わる。確信を持ってその時・その場でどうしても必要な音。その音を出さなければ身体も心もダメになってしまうような音。その音が自分の身体・楽器を通して出てくる。それを大事に丁寧に出してあげる。そこにその人の個性が付加されて現れるのでしょう。アコースティック楽器は、この作業が単純化できます。それが「演奏」なのでしょう。
「アイヌ神謡集」の中に何回も「耳と耳の間にすわっていると」という表現があります。これ、良いです。楽器を弾く人は「自分が」音を出しているということから離れて、耳と耳の間にすわって自分と楽器を通して出てくる音を聴くことが演奏することなのでしょう。自ずと周囲の音、共演者の音も同格になって入ってくるでしょう。