前に挙げた「ひとつの音に世界を聴く」武満徹対談集(晶文社)の、ケージ、武満、海童道の鼎談から海童道のコトバを抜いてみます。まさに今、私の課題であり、インプロミュージシャンには大変参考になるでしょう。
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これは、 何わざにしてもみんなそうですが、結局は、ほんとうの音と言いますか、すべての音は、なにもない音が基本です。
これまで音、音といってきましたが、音じゃなくて、ほんとうは呼吸なのです。
無というのは無数のことで・・・
もう音楽という色がついている音より、もっと自然の音に接触したいのです。
ちょうど、竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音ーーそれは鳴ろうとも、鳴らそうとも思わないで、なる音であって、それが自然の音です。しかし、ただそれだけでは自然現象の音に過ぎません。その音に即して自分の考えを入れていくと言うことです。自然と人間とが円融して真理を現すという実践なのです・・・・・
楽器の方でなくて、自分自身の方に調律をつけることを考えています。自己の楽器化です。そうするとどんな器物に対しても、これを音楽とすることができるのです。
呼吸は、入る息よりも、出る息の点が長いことに生命力のつよさをみるのです。それには呼吸をずっと長く出してゆく修行を積まなければならないのです。そのために海童道では常に法竹を吹定するのです。
音楽をやるよりも、どうにかして自分自身を力づけて生き抜きたいと言うことのために、法竹をつかっているのです。
とにかく私は音楽家が嫌いで、宗教家が嫌いで、芸術家が嫌いです。それではいったい何だ、と言われれば、何でも無いということになりますが。・・・・
現代の文化は、めまぐるしさが栄える、目まい文化だと思います。その中で一番欲するものは、静寂境でありましょう。
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竹藪の話は、荘子の斉物論を思い起こさせます。
「汝(なんじ)人籟を聞くも未だ地籟を聞かず。汝地籟を聞くも未だ天籟を聞かず」天・地・人間の発する三つ響き。天籟・地籟・人籟。人籟は人が楽器を奏でる音楽。地籟とは自然が奏でる音楽。天籟は人間に喜怒哀楽の感情を起こさせる「何か」それがあるはず。
地籟では、沢井一恵さんのコトバも思い出されます。「箏で一番良い音は何でしょう?」と質問したとき「それはね、柱(ブリッジ)を外して外の壁に立てかけておいたときに風が吹き抜けた時に出る音よ」。
それはまた映画「駱駝の涙」へと連想が進みます。モンゴルの話。難産のために我が子を育てることを拒否した母親に馬頭琴を聴かせると涙を流し育児を始めるわけです。私が注目したのは、馬頭琴演奏の直前に、楽器を駱駝のこぶに掛けるシーン。そこに風が吹き馬頭琴がホワッと鳴ります。その音が母親駱駝の身体を調律して音を聴く準備をしているたいへん大事なステップのように思いました。