「うたをさがして」右往左往
もちろんオペリータ「うたをさがして」の宣伝の毎日(実は、御予約が全く伸びず、焦っています。どうぞご検討・お誘い合わせ下さいませ!)ですが、すべての活動が「うたをさがして」右往左往しているようです。
人はなぜうたをうたうのか?音楽を?成人してから音楽を選んだ私にとって最も大事な問いです。私はなぜ音楽をやるのか?家族・友人に迷惑をかけ、家計を犠牲にしてもなお続けるのか?
「音楽」は音を楽しむって書くでしょ、楽しくなければ音楽じゃ無いよ、とよくお説教されますが、漢字「音」のなりたちを思えば(白川静さん説)まったくの的外れであることが瞬時に分かります。また、「楽しい」は、簡単に操作されています。
アウシュビッツでの音楽の在り方を考え「音楽への憎しみ」(青土社)を書いたパスカル・キニャールは映画にも成った「めぐり逢う朝」(早川書房)サント・コロンボ役にこう言わせています。
音楽は神のものでも、愛のためでも、沈黙のためでもなく、死者への贈り物であり、言葉無き者たちへのささやかな慰めであり、世に出ることの無かった胎児達に捧げるものだと。
私には白川さんやキニャールさんのように言い切る経験も思考も全く足りていませんが、いつも引っかかっています。
野口三千三さんは、音楽は何かに呼びかける行為、ダンスは何かをさがす行為と喝破しました。この説は納得・体得できます。
堺でのソロ、難波でのライブペインティング、アケタでのブラジル音楽、並木宅での感謝と希望のマイホームライブ、すべて私の「うたをさがす」旅でした。ありがとうございました。