箏との曼荼羅をつらつらと思い出しています。なんとシカゴAACM(Association for the Advancement of Creative Musicians)、そう、あのアートアンサンブルオブシカゴの組織に行き着きました。そうでした、そうでした。AACM会長をしていたジャマイカ生まれのダグラス・イワート (Douglas Ewart)さんが日本に滞在して尺八を学んでいました。その時に何回かセッションをし、中村明一さんとも共演。
朝日カルチャーセンターでの大成瓢吉「イメージ・デッサン教室」では年に何回かミュージシャンやダンサーを呼んでいました。そこは普通の主婦が何人も美術作家になって世界に羽ばたいていくという伝説のクラスでした。そこで中村さんと一緒に演奏、翌週、たまたま中村さんの都合が悪くなり、代わりにやってきたのが栗林秀明(十七絃)さんでした。それがすべての始まりだったわけです。不思議なものですね。
その後、栗林さんのリサイタルに呼ばれ(平成元年)、バール・フィリップス初来日の時にも栗さんと演奏・録音「彩天 Coloring Heaven」、その後、「弦楽四重奏団」(減額始終相談、なんて栗さんが名づけてくれました。)として17絃・津軽三味線(佐藤道弘)・ギター(広木光一)と私で短く活動をしました。ベルギーのフレッドバンホーフさんに大変気に入られ、招待されましたがかなわず。二十数年前の日本の音楽(即興)事情は今では考えられないくらいキビシク、グループの維持さえできませんでした。現在ならば邦楽・雅楽を含んだアンサンブルは当たり前ですが、当時は「変わり者」「色物」にさえ見られていました。
その活動に一恵さんが興味を示し、栗さんとのライブにそっと来ていたりして、だんだんとご一緒することになりました。そのごく初期がユーラシアン弦打エコーズになるのです。私は、邦楽の師弟関係や、邦楽界のことなどまるで知るよしもなく、フムフム、不思議な世界があるものだ、と外野から見ていました。
一恵さんがアンサンブルを率いて世界中を飛び回っていた時期と重なり、生徒さん達もジョン・ゾーンや大友良英と接近したり、何かが生まれそうな時期でした。こういう時期って大事です。師匠と一緒にやっていると言うことでもあるのでしょうか、私にも興味を示してくれました。
私にとってありがたかったのは、彼ら(ほとんど彼女らでした)が、真剣に立ち向かってくれたことです。曲を委嘱してくれたり、何回も何回もリハーサルをしてくれました。そういうことは「洋楽」の世界ではなかなかあり得ないことです。良いミュージシャンはだいたい忙しく、経済をしっかりしないとリハーサルも不可能です。そんな中で優秀で熱心なミュージシャンが多数いたのですから、私にとっては大きな機会になったのです。
今回も演奏する「ストーンアウト」もその中で生まれました。そもそもは、KOTO VORTEX(西陽子・竹澤悦子・丸田美紀・八木美知依)の委嘱でした。現在の彼女らの活躍から当時のことも想像できると思いますが、「勢い」と「技術」と「誇り」がありました。その後、私自身も入りCD録音。神奈川フィルハーモニー管弦楽団で演奏したときは私と一恵さんがソロという形式になりました。
その後、一恵さんとは、韓国で金石出のクッに参加したり、中央日報社ホールで2回コンサートをやったり、ソウル大学でワークショップやったり、韓国録音をしたり、板橋文夫さんと月の壺トリオで韓国人演奏家をゲストに録音やツアーをやったりしました。現在は西村朗作曲の「かむなぎ」(韓国伝統音楽を意識した現代音楽)をしばしば共演しています。
そして、石垣島でのデュオライブ。1年前に宮古島でご子息を亡くし、その追悼もこめてこの島に来たのだろうと私は推測していました。アトリエ游での2日間の公演の1日目終了後、ご主人の忠夫さんが熊本でクモ膜下で倒れたという連絡。翌日「どうぞすぐ行って下さい」と言いましたが、2日目も演奏し、熊本に急行。その時のライブ録音がCDになりました(今回の応援団・森田純一さんのジャバラレーベル第一作「八重山游行」)。私は17絃とベースを抱えて呆然と羽田に降り立ちました。
ストーンアウトと言えば金石出のダジャレということと、英語だと「ドラッグできまった状態」を指すことということをいつも話をしてきましたが、実はそれだけではないのです。一恵さんの周囲で次々起こったことが作曲時と重なったため、それらが大きな動機になっているのです。組曲の各タイトルが「知らせ」「嘆き」「慰め」「送り」などとなっているのはそのためです。忠夫さんのお通夜の時「良い人間から逝くのよ」と私にそっと言いました。「ストーンアウト」は金石出と沢井一恵に捧げられているのです。
一恵さんとは国内はもとより、フランス・スイス・ベルギー・アメリカ・ハワイイ・シンガポール・ラオス・タイなどにも行きましたが、韓国とヨーロッパでの即興が強く印象に残っています。今回の参加は当然なのです。21年前、ユーラシアン弦打エコーズの時、インタビューで「日本にも韓国にも箏が様々あります。しかし、玄界灘は深いのよ。」と一恵さんは答えました。「違い」をこそ糧として創っていく、これこそがユーラシアンエコーズの主旨です。
KOTO VORTEXに続き「どんぐり」「箏衛門」が生まれ、そして「螺鈿隊」。螺鈿隊のメンバー全員入っていた「箏衛門」との共演で忘れられないのが金大煥追悼演奏会(FM東京ホール)でのストーンアウトでした。私は、彼らの真摯な演奏に心から打たれました。PA担当がノイズメディアの川崎克己さん。(私の初録音「TOKIO TANGO」のエンジニア)長崎被爆二世である彼は、一度、倒れた後の復帰第一回目の仕事でした。長髪を金色に染めて異形そのものでマイクの前に立ちはだかりました。いつもそうですが、姿も音も挑発的ですが、完璧に受けて立ったのがこの若い箏アンサンブルだったのです。彼もすぐさまそれを感知、スッゴいPAをしました。若い・ベテラン・有名・無名では全く差別をしない彼です。すごいPAってなんだか分かりませんが、ともかく凄かったです。完全に共演者でした。そしてその後、彼は亡くなってしまいました。いつまでも忘れがたい彼との仕事でした。(そして川崎さんの後輩・鳥光さんが今回のPAです。PA/public addressではない、SR/sound reinforcementだ、と川崎さんに怒られそうです。)
その後、「オンバク・ヒタム」座高円寺で田中泯さんとコントラバストリオ羊との会で螺鈿隊に演奏してもらいました。舞台上での交感がなんともうれしいグループです。隠し立て皆無、今を生きている、という感覚をいつも共有できます。ありがとう、今回も宜しくお願いします!