歌や踊りはみんなのもの

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もともと歌や踊りはみんなのもの、という考えが私の中にあるのかもしれません。専門家は工夫を示してくれもっと楽しく歌い踊ることができるように導くという感覚。(初めて意識したのは小学生のころの新宿西口フォークゲリラだったかもしれません。)この30年間ブラジルのように歌と踊りが盛り上がった地域は珍しいでしょう。私はファンとしてずっとフォローしていますが全体像さえつかめないほどの大きさと豊かさがあります。詩が生きていて、歌が生きていて、踊りが生きている。(オリンピックとワールドカップで終わってしまわないように!)

 

ジャズは、西洋クラシック音楽の長い変遷をあっと言う間に駆け抜けたという見方ができるかもしれません。複雑な和声から現代音楽の偶然性・即興性への流れを、ビバップからモード、フリーへの流れに当てはめるわけです。両者とも巨大なポップ産業に到底対抗できません。そんな流れの中でヨーロッパでのインプロビゼーションをみると興味深いです。

 

ヨーロッパのインプロは「フリージャズ」との違いから出発しています。フリージャズの叫びではなく、楽器演奏の極北を目指していく過程ででてきた、という感じ。そこには知的活動としての現代音楽の影響も、ロックやエレクトリック音楽からの影響もあります。「アメリカ・黒人・ジャズ・差別・政治」のリンクの中で物まねを忌み嫌うヨーロッパ人が似た演奏することは出来ないでしょう。

 

私が親しくしているヨーロッパの奏者達の傾向として、もの凄い腕を持ちながら、そのテクニックを披瀝すること無く、「匿名」へ向かうベクトルがあるようです。自己表現の末に匿名へ至る大きな流れの中に居るのでしょうか?そして彼らは歌や踊りが大好きです。(完全に匿名になってしまうと、演奏で生活が成り立たなくなってしまいます。)歌や踊りは「身体性」そのもの。机の前にすわっていてはできないものです。そして作者が誰(著作権)という話と関係なくなることが一つの理想です。身体性を否定しないけれど匿名へむかう、近代ヨーロッパの基本である「個」を無くしお祭りへという、逆説を生きているのかもしれません。

 

ヨーロッパ即興音楽の一つの中心ミュージック・アクションフェス(ナンシーバンドゥーブル)のボス、ドミニク・レペコーさんは「ミュージック イズ パブリック・サーヴィス」とよく言っています。「匿名の演奏になってもいいよ、好きなことをとことんやりなよ、」そうやって音楽・演奏家を擁護しているわけです。ヨーロッパの強いところです。

 

振り返って我が身を見ると、あらかじめ歌と踊りを奪われて育ってきた私が、なぜか音楽を始め、歌や踊りを取り戻す過程でジャズやブラジルや韓国伝統音楽や邦楽・雅楽・能楽、タンゴやヨーロッパの即興音楽に出会ってきたというとちょっとできすぎでしょうか?まあ、まとめる必要も無いし、わからないからやり続けているのかもね。

 

写真は空中散歩館でのライブ、板橋文夫・沢井一恵・李太白・金星娥・徹 CD「月の壺」(板橋文夫リーダー)になりました。

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