自己表現と自己実現
20年経っていて、しかも途中で長い没交渉の時期があることは大事なことでしょう。まず、20年前のように浮かれていません。あの頃は金石出さんや金大禮さん安淑善さんなどの巨大カリスマに会ってある種の興奮状態にいたことは事実。没交渉の間にヨーロッパでのいろいろな経験も経ています。それでもまたやろうと決めた理由をゆっくり考えています。
あんなに個性豊かで自己主張の強い人達ですが、こと音楽に関してはとても謙虚です。ユーラシアンエコーズのソウル公演で、金石出も安淑善も李光寿もみんなで幕が開く前に手を繋ぎ円になってかけ声をかけ息を合わせました。私は、なにか照れくさい感じがありましたが、彼らはごく自然でした。
大きな大きなリズムの流れがあり、一番大事なのは、そこに身を託すこと、その上での個人主張なのかと思います。自分を超えたものを信じる謙虚さかもしれません。「1音聴けばその奏者がわかる」というのがジャズやクラシックで「褒め言葉」に使われています。「ソロ」という考え方もジャズ、クラシックでは暗黙の内に認められています。その人にしか出来ない音こそ尊いわけで、そこに価値を見いだす。演奏する方も聴く方もその尺度があります。その音を得るために過酷な練習をして身体や精神を壊してしまうこともままあります。
かの国の人々は、歌と踊りが本当に好きです。私がよく行っていた頃、観光バスが流行っていました。おばちゃんおじちゃん達が観光バスに乗り休日どこかに行くのです。後ろから見ているとどのバスもゆっさゆっさ揺れています。中で歌と踊りが最高潮なのです。
歌や踊りが上手い人がプロになっていく。それは日本や欧米でも同じでしょう。しかし、「上手い」に比例して「演奏料」が上がっていくという「演者ー聴衆」の直接関係が近代的なエンターテインメントだとすると、かの国では、「捧げ物」としての歌・踊りの意識がどこかに残っている。「自分たちに代わって、より上手な人にやってもらっている」、自分たちも演者も「上」にいる「神」を見て「神」に向かって歌っている・踊っているという意識が残っている、そんな気がします。
自分を超えたものに身をゆだねることで自分の知らない自分を発見する、それを自己「実現」と言ってみたい思いがあります。身をゆだねるためには勇気が必要です、閉じていては不可能です。一方、自己「表現」は自分の才能、学習、工夫を披瀝するわけですので、自分を超えることはありません。「思い通り」行ってもそれはその人の限界内に留まっています。発見や共感の幅がせまい。
身をゆだねる勇気をもつためには何かを強烈に信じていることが必要で、かつ、日頃も真剣に鍛錬を怠ってはならないでしょう。そこに私は「健康」を感じ、魅力を感じたのかもしれません。
写真はピットインでの金石出・沢井一恵・徹・伊藤啓太。この時は満員立ち見でしたね。