小学校の同級で在日韓国人らしき友人がいて、ともかくお金持ちでした。特にひけらかすこともなく普通に振る舞っていました。当時男児の間で大変流行っていた模型のレーシングカーの大きなサーキットを自宅に持っていて、私は自慢のマシンを持って遊びに行ったことがありました。表札の名字とみんなで呼んでいた彼の姓が違っていたのを不思議に思っていました。
次の機会は大学時代まで飛びます。張り合いのない学生生活の中、必修の外国語に韓国語を選びました。初めはフランス語に行っていましたが、あまりにチャラチャラした雰囲気に嫌気がさしました。韓国語学習は、ヨン様ブーム以降の今では想像できない状況でした。満足な辞書もほとんど無い。教科書も堅苦しいものだけ。先生(ユウサンヒさん)の人柄がよくて続けて単位をとりました。先生が紹介してくれた東大生が韓国の詩人を教えてくれ(申庚林、金洙暎など)その強度に驚きながら読んでいました。初めての訪韓もそのコース関連でした。まだ戒厳令(夜間外出禁止)のソウルで、道を聞かれて答える位はできていました。(後に読売新聞ソウル支局長になる人もクラスにいました。)下関から釜山へのフェリーに国鉄(JR)の学割が使えたのも覚えています。今は言葉をほとんど忘れてしまいました。
長崎県出身の祖父は上海・東亜同文書院(日本の外務省管轄の国立大学)を卒業後、商社に入り、仏領インドシナ(ベトナム)やパキスタンなどへ行っていた関係でしょうか、アジア人がよく家へ来ていました。また祖父にはアジア関係の仕事・外交官をしている知人の日本人も多かったようです。(タイ人スポットさんに教えてもらった折り紙の飛行機は今でも折ることができます。)庭にシュロの木やゴムの木を植えていたのも覚えています。日本酒が好きな祖父は良い気分になると孟浩然の「春暁」などを中国語で吟じて私も覚えてしまいました。私の母は漢口で生まれています。そんなこんなでアジアに対しては身近な感覚があったことも影響しているのかも知れません。
私が音楽で生きるなんて(自分も含め)世の中で誰もが想像もしませんでしたが、なぜかそうなり、韓国音楽と共演するようになりました。世の中本当にわからないものです。ソウル中央日報社ホールでのユーラシアンエコーズコンサート会場には、前述の東大生(もう大学の教員になっていました)、韓国との関係を深めた劇作家の岸田理生さん(寺山修司さんとの仕事が知られています。私も当時よく一緒に仕事をしていました。)などがいて楽屋を訪ねてくれました。大学から逃げるように音楽の世界に入り試行錯誤の10年を経てこの場で会うなんて、過去と現在が交錯して本当に不思議な感覚を味わいました。
写真は珍島の公民館で、シッキムクを見学。考えてみるとユーラシアンエコーズとオンバク・ヒタムの2つの企画はどこかで繋がりますね。生きている内にできるかな〜?