初めて会ったのが2003年リッチモンド大学でのISB(international society of bassists )コンヴェンション。と言っても私は彼女を知りませんでした。そこで200人以上ほとんど全員がベーシストの聴衆の前でソロをしました。このコンヴェンションの時のISB会長がバール・フィリップスさんでした。彼が一週間の開催期間、日本人のベーシスト特集を組んでくれました。参加したのがスエーデンから森泰人さんがジャズ、大阪からクラシックの奥田一夫さん(あろうことか、マウンテンバイクで急死されました。)と私。

 

その時の私は、カナダ・フランスでミッシェル・ドネダ、レ・クアン・ニン・沢井一恵・今井和雄とのツアーを終え、十二分満足していて、あまりISBコンヴェンションのことは考えていませんでした。初心に戻って、「どうしてこういう演奏をするようになったのか?」を説明しながらオリジナル曲を中心に演奏しました。その聴衆の中にパール・アレキサンダーさんがいたということです。

 

その次に会ったのが、なってるハウス。千恵の輪企画でのピアソラツアーの初回、オリヴィエ・マヌーリと今井和雄とのトリオで演奏、高場将美さんとオリヴィエのトークという会で、聴衆の中にパールがいたのです。一言二言話しをして、リッチモンドの話しも聞きました。

 

その次に連絡を受けたのが、新潟から「レッスンをしてください」ということ。新潟から新幹線に乗って楽器を持って日帰りでやってきました。その熱心さには心打たれました。日本に特にサブカルチャーに興味があって日本語をマスターして今、新潟で教師をしながらベースを弾いていると言う話。レッスンをして帰りがけに幡ヶ谷駅まで送っていく時刻に「塩」でジャンと待ち合わせをしていました。塩の前を通って送っていきました。その後、パールがジャンとも共演することになろうとはまったく思いませんでした。不思議なものです。

 

願いが叶って東京に移住、少しずつライブを開始していました。考えて見ると一人異国に来て、生活費を稼ぎながら演奏活動をしたいという気持ちはたいしたもの。なるべく応援しようと思いました。エアジンを中心に何回かデュオ、瀬尾高志を入れてトリオをやったりしているうちに、評判になり忙しくライブの依頼が来るようになったようです。

 

その後、ベースアンサンブルのDVD撮影の話しから、クインテットを結成したときに当然のようにメンバーに入っていました。そして3・11です。ジャンは香港から日本に来られず帰国、外資系の会社が大阪に本社を移し、エアフランスがフランス人輸送のためにジャンボを用意、果てしなく続く余震の中、明日どうなるかわからない状態でした。パールもアメリカに帰りました。

 

ベースアンサンブルのリハーサルは続けました。それこそ楽器運搬用のガソリンを計算しながらのリハでした。そして1ヶ月ほどした後、パールが日本に帰ってきました。「私が仕事をするのはここ、日本。生きるのはここ、日本」と言って、親戚・友人の大反対の中帰ってきたのです。「いずるば」でのリハでパールと再会したときのことは忘れられません。戦友のようだと皆でハグしました。(無事に撮影も終わり、ライナーノートの英訳のチェックもしてもらい、製品になりました。)

 

都内でも評判を高めている彼女が茶会記で「にじり口」シリーズを始めました。そのゲストとして私が呼ばれました。16日(日)午後3時からです。即興演奏をしたい、とのことです。どーぞお楽しみに。また10月27日には念願のバール・フィリップスセッションにベースアンサンブル全員参加します。単なるベースミーティングにはしませんよ。これもドーゾご期待ください。

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