日本語的身体

訳あって三遊亭圓生師匠の全集(下)12枚のDVDを集中的に観ました。浮世風呂、後家殺し、豊竹屋、能狂言などの浄瑠璃がふんだんに入っているものが多く、圓生師匠の巧みな節回しが身体に入り込み、身体が日本・日本語になっているのに気がつきます。もちろん師匠の話術は名人・上手の域。江戸言葉も上方言葉も良い感じで響いています。ちょっと前にお神楽の映像も観ていて、一歩一歩ゆっくりと踏み出すような感じがなじんでしまいました。

 

同じような感覚になったことを思い出しました。能の小鼓・久田舜一郎さんとフランスツアーをしていたとき800㎞の車移動があり、お茶目な久田さんもかなり飽きてきて「謡」を教えるから真似してみなさい、ということになりました。鞍馬天狗のさわりの部分を下手なりにお腹から声を出していると、身体も感覚も日本になっている、と感じたのです。なんと回りの景色も日本に見えてしまいました。

 

詩人の野村喜和夫さんがよく「国語・国文学的身体」と言いますが、このことなのか、と思います。

 

音楽は音楽なのだから西と東はそれほど違わない、ましてやネットが拡がり、生まれたときから洋服を着ているのだから、ますますその傾向がある、という考え方もわかります。日本人以上に邦楽を熟知した西洋人奏者もいます。本場がビックリする日本人演奏家はクラシック、ジャズ、その他多くのジャンルにいます。

 

一方、小泉文夫さんがよく言う「骨の髄に響く」音楽、あるいは、いまわの際に立ちのぼる音楽は、やはり日本語の音楽ではないだろうか、という感覚はなかなか消えません。

 

即興演奏は前提が少ないので、より自分の知らない自分へと進んでいくことがあります。私はまったく意識していませんが、私の演奏は「日本的」だと言われます。邦楽の奏者にもそう言われたことが何回かあります。また一方、自分とは相容れないと思う日本人演奏家の演奏も同じように「日本的」であり、どこか似ていると言われると、「?」が出てきてしまうこともあります。

 

 

風の器の役者・ダンサー達にとっての日本語というのは、音の要素は少なく、字であることが多いのでしょう。その影響はどのあたりにでるのか?邦楽器奏者には民謡や歌謡曲が上手な人が多い。

 

「シーっ」という音の中にある「静かにして」という記憶は多くの人種・民族に通じるでしょう。「M」の音に宿るクチビルの感覚は食べること・吸うこと・母性に通じているようです。海童道の音に耳をそばだてるミッシェル・ドネダは確実に何かをつかみ取っています。深く深く探ることで高く高く飛ぶ、そんな感じ、ドンドン落っこちているはずが、ドンドン昇っている、下に向かって上っている。

 

 

 

すべてを受け入れて(それもムズカシイ)、自分が媒体となって音が出ていく(それも相当ムズカシイ)そんな意識のしかたを積み重ねていくといつかヒントが飛んでくるのかもしれません。11月には「身体と音」というトークの依頼もあるし、ゆっくりと歩きながら考えて・感じて行きたいと思っています。

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