もの、もの、ものにあふれ、美術・演劇・音楽・映像・ダンスが交錯し、コスプレ・マンガ・ゲイ・ヘタウマ・セックス・ホームレス・乞食・憑依・メリーゴーランド・スモーク・奇抜な衣装などが出てきます。また自身が髪の毛を剃るパフォーマンスもあります。それを廃墟化した建物の中で上演するわけです。
何でもありです。見方を変えればユン教授の頭の中を具現化したとも言えます。こういう大騒ぎパフォーマンスと社会状況は、どのように関係しているのか、考えざるを得ません。バブル後期の東京で関わった劇団「太虚(TAO)」は、住友ベークライトの一万坪の工場跡地で公演を行いました。今回の公演に似た部分が多いのです。自然にその経験と比較してしまいます。
「耐える、堪える」という行為は、感覚を共有しやすいかもしれません。肉体的に、精神的に堪える。その視点からちょっと考えて観ます。
例えば、ロックやノイズ音楽の大音量は、普通の人間の肉体に堪えることのできるレベルをはるかに超えています。
そこに耐えているという演者のリアリティを、聴衆は同じ空間で感じて共有体験(ライブ感覚)するのでしょう。
長年「美しい」と言われてきたものに対する「疑問」として今までガラクタと言われてきたものを提示する。その行為は大事でしょう。
敢えてガラクタを利用する、のはポーランドのタデウシュ・カントールの手法でもあります。しかし彼の思想は「低いレベルのオブジェこそ価値がある」としていました。あえて高いお金を使ってガラクタを作ることはなかったと思います。
これでもか、これでもか、と「もの」を持ち込み、考えられる限りの意匠をこらし、ノイジーに感覚を麻痺させる直前まで「堪える」。それがこのパフォーマンスの一つのテーマであるのでしょう。
インターネットは日本より数段進んでいて、情報はいくらでも手に入る。多くの情報を人間の許容範囲を超えて浴びるように取り入れて「耐え」る。
簡単にいえば「もっと、もっと、もっと」の考え方でしょう。経済が右肩上がりの国の成せることなのでしょうか。
振り返って、「もっと少なく、もっと少なく」という考え方を私は自然に取っているようです。ほとんどの演奏を生音でやることもその一つです。「効果」からなるべく離れようということもその一つです。
もっと、もっと、もっとの先にFUKUSHIMAがあり、爆発してしまったと考えられないでしょうか?
今、デコレーションでなく、イフェクトでないものを自分の中に探して行く。東の島国から来た異物として、明日・あさっての公演に出演しようと思います。
一月6日・7日、ソウル駅旧駅舎、正面から一番右、午後8時より約一時間。