ミッシェルを送り翌日はJ大学の講義。もう10年以上やっていますが、今年度で最後です。私も変わったでしょうが、学生もずいぶん変わりました。初めの頃は男子学生も多く、また学外からの聴講者も多く、講義が終わるや「飲みに行きましょう。」と誘われもしました。100人越えていた学生も今年は40名弱。
昨年度からコンピューター室での講義になり、学生達はコンピューターのモニターを見ながらカチャカチャノートを取っています。その方向は私がしゃべっている方向と直角。なんだかなぁでした。今年度からなるべく英語で講義をと言う要請もあり、ずいぶんと雰囲気も変わりました。
「100人の学生のうちで一人でも二人でも感じてくれればいい。普段考えていることをそのまま伝えて欲しい。」ということで引き受けました。それを思い、毎回精一杯準備して臨んだものです。自分の考えをまとめるには良いチャンスでした。なるべくわかりやすい言葉で話さねばならないチャンスでもありました。
実際、一人二人は我が意を得たようなリポートを書いてきて、ライブにも来たりもしました。たまたま廊下で聴いていた学生が、興奮して話しかけてきたり、美術を目指す若者(学外者)が賞を取ったり。
ミッシェル・ニンとのほやほやの映像、ベースアンサンブルの映像、海童道の映像、ピナやジャンの映像、駱駝の涙の映像なども用意。呼んで欲しい本、観て欲しい映画のリストを作ったりもしました。その年の最後の日には楽器を持ち込んで演奏するのが恒例になっていました。
思えば、大学アカデミズムから逃げるように音楽の道に入り、20年後、呼び戻され、そして10年勤めました。20年前はちょうど神奈川フィルとの仕事のころで、ジャズ、韓国、タンゴ、邦楽、アジアなどやりたい音楽を一巡り終えたと感じていました。フィルハーモニー(西洋音楽)は私には合わないな、と思ったり。そして、耳を患い、もうこれまでかと思ったり、しかし、しつこく続けています。まだやりたいことはあります。
今どきの学生達と、私の普段使っている言葉、つき合いのある人達とは、全く違う世界でしょう。「通訳が必要だよ。飛躍もありすぎるし。」なんて言われたこともありました。さもありなん。私の言っていることが理解できなくても単語1つ、2つ引っかかってくれ、将来何かの機会に思い出してくれればと思い、あと一回,勤めます。