明日から2日間の「浸水の森」に備えねばと思い、楽譜をさがすが出てこない。長年の習性は困ったものだ。コンピューターから出してみたものの、書き込みが無いので変更がわからない。リハーサルごとに、そして本番ごとに、ずいぶんと変更があるのに。ありゃりゃ。
私はリハーサルも、本番もほとんど差が無い。心がけも、緊張も、弛緩も、着ているもものも。発見のヨロコビ、コミュニケーションのヨロコビに差があろうはずがない、なんちゃって。
連日続く宮沢賢治ものリハーサルで、「永訣の朝」「無声慟哭」のシーンで直毅さんにイーハトーブ語で朗読してもらっている時に、楽器の横置きを試していた。世界中で何回となく横置きをやってきたが、ある時にとても納得できる音がでてきた。「これこれ、このためにやってきたのだ」とさえ思ってしまった。たいへんな充足感。
直毅さんも、その場に賭けてしまう性(サガ)があるようだ。二人でその場を離れてどこかへ行ってしまいがちになる。何のためにここにいて、これをやっているか、をすっとばしてしまう。「いま・ここ・わたし」の大切さを説きながら、「いまでない、ここでない、わたしでない」に行ってしまう。それを求めることで「いま・ここ・わたし」が客観視できるのかもしれない、という言い訳か。ともかくどこかへ行ってしまう、行きたい、いや行かざるを得ない、とめてくれるな、おっっかさん。
現在、私と直毅さんがやっている2つのトリオ。「浸水の森トリオ」「うたをさがしてトリオ」。たまたま、両方共もう一人は「佐藤」さん。(佐藤芳明・さとうじゅんこ)。
私と直毅さんは訴える! 「私たちにはSATOUさんが必要なのだ!We need Satou!」佐藤さん達は外れがちな私たちを引き戻してくれる。たいへんありがたい存在だ。