旅が終わり、まぬけな日常がやってくる。ハレでなくケ。ハレとケの間にケガレがあるというのが鶴見和子さんの説。ケはケガレを経てハレに至ると勝手に解釈。まぬけな日常も汚していけばハレに至る、と信じる。汚そう、汚そう、汚そう。決してまったりさせぬ。
本日はポレポレ坐「うたをさがして」のリハーサル。重要メンバーの病欠にもめげず、淡々とリハーサルをし、日常を汚していく。不測の事態にはチャンスが必ず潜んでいる。
人がいかように思おうと地球は回る、回り続ける。身近な人の生や死に一喜一憂するが、毎日地球上でいったい何万人の人が死に、何万人の人が生まれるのか。
ともかく今までにないトリオが生まれた。2月24日ポレポレ坐。乞うご期待!大きく二部に分ける。第一部はテオ・アンゲロプロスの映画「永遠と1日」「エレニの旅」「霧の中の風景」からの作品だ。今回は「永遠と一日」から6曲、エレニから2曲、霧から1曲。
実は、このレパートリーを北海道ツアーで3曲試し続けていた。「おおセリム」ストリートチルドレンの仲間の死に対して、読み上げたスゴイ言葉。「クセニティス」(どこにいてもよそ者というテオの根っこにある感覚)では、「詩人が言葉を買うぞ」というのがテーマ。「今日は私の日」(だから踊りましょう、踊るのが嫌いでも)は大人の愛とダンス。言葉と演奏を一緒にしたことがないベーシスト2人が何とか試行錯誤した。
それには不測の事態が背中を押した。道中、現実にいくつかの死があり、それに対する追悼をするときに「ああセリム」しかあり得なかったため、演奏した。言葉も発した。「朱い場所」の「青鬚マントラ」のメロディがビッタリと寄り添った。今や、「ああセリム」以外あり得なくなった。言葉とメロディが分かちがたく一致した。
「クセニティス」は、「詩人に言葉を売る」というテーマを展開し拡げていった。そうすると日常の言葉にも敏感になっていく。何か良い言葉はないか?という視点ができる。道中、ガソリンスタンドでの出来事。その給油所がジョモなのかモービルなのかエネオスなのか、聞こうとして「ここは、どこですか?」と高志が聞くと、給油所のお兄さんは「ここは、どこでもないところです。」と答える。えっ、と聞き返しても「ここはどこでもありません。」と答える。
外は零下、夜、雪が降りしきる。そこは「どこでもないところ」。これは詩に聞こえた。この言葉は詩人に「売れる」と一同感じた。それ以後、良い言葉・「売れそうな」言葉を見つけると「チャリーン」と相づちを入れることになった。そうすると世の中は詩の言葉にあふれていることが分かった。旅の心はそういう窓に敏感になる。視点が違えば、何事もなく通り過ぎる。詩や音楽はそういう所に潜んでいる。「ちょっと待って」みることが大切。
「待つ」ことが「祭り」に繋がっていく。騒ぐのは、自分たちが自己満足のために欲求不満を解消するのではなく、日常を汚して待つ、カミサマが顕れるのを待つことが祭りなのかもしれない。
タイトル
「ああセリム」「今日は私の日(永遠と1日)」「コルフーラ」「目を閉じて」「クセニティス(何処にいてもよそ者)」「春は約束を守らない」「河の始まり」「看守さん」「霧の中の風景」
これだけでも充分日常を汚せます。
第2部はさまざまな試みをします。
じゅんこさんの専門分野からジャワの古謡、オンバク・ヒタム、そして韓国もの(ストーンアウトから抜粋)、を経て最上川舟唄へ。
古楽シリーズでは、フランスの俗謡からマレ、リュリそしてトルコマーチへ
乾千恵さん作詞・徹作曲から「舟唄」「夕暮れの数え歌」「星がまたたく」
世界の名曲はお楽しみ選曲です。
是非おいでください。損はさせませんぜ。