北への旅はなぜか、毎回「生き死に」が去来する。
最初の演奏地・旭川では家族の一員だった愛犬が前日に旅立ち、3番目の演奏地小樽へ向かう車中で、ベース仲間の来るべき命が流れてしまったとの知らせを受ける。聴衆に拍手を遠慮してもらい追悼の曲を演奏する。最終地釧路では当日、地元の画家が火事で逝ってしまった。そのことを知らず、この場所ゆかりの大野一雄さん、古沢さん、ピナさんへ捧げる曲を演奏していた。知っていた客席は微かに揺れた。
音楽とは、「死者への贈り物」「言葉なき者達へのささやかな慰め」「世に出ることの亡かった胎児たちに捧げるもの」とするサン・コロンブ(『めぐり逢う朝』より)の言葉が内臓的な実感を伴う。
音と詩が死と生を繋ぐためには、厳しく選ばれなければならない。いや、私たちが選ぶまでもなく自然に取捨選択されていく。音のない状態、言葉のない状態に拮抗できる音と言葉。それらの通り道になれるかどうかが問われてくる。皮相なテクニックは軽蔑されるだけだ。
いつでもここにいなければならない。旅の終わりは旅の始まり。