お互い、この住みにくい地球にやられっぱなしで疲れてしまっていた感じは暗黙の内にわかっていました。今日は楽に、自身へのリハビリでやりましょう、ということを演奏前に話しました。
「楽器に導かれて」という感じがピッタリなのかもしれません。楽器のこと弦のことには人一倍こだわるのですが、楽器オタク的にでアーだコーだ言うのではなく、何を、どう、そして何のために演奏するかが何より大事という共通認識もあります。いざとなればお互い廃品の楽器でも弾くでしょう。それは両立することなのです。
楽器に導かれて着いた一つの行き先が古楽でした。二人ともガット弦ですので、何とも自然な響き、即興性も自然に展開できます。その時代(16~17世紀)のヨーロッパは、東方トルコなどに多くを頼っていたのでしょう。その方向も私たちに加速度を与えてくれます。その時代のコントラバスの楽譜に「紙を弦に挟んで馬の擬音を出す」と書き込まれていたとか、太鼓にスネア(響き線)を足すと(ノイズを付加すると)人の情動を刺激するので禁止された期間もあるということです。
ムリっぽいアルペジオ奏法、倍音を意識的に出す、バルトークピッチカートなどなど野趣あふれる洗練(ソフィスティケーション)逆行の指向も共通しているのかもしれません。バッハも民族音楽のように響いても良いはず、いや,その方が良い?なんてね。
楽器に導かれて着いた一つの先はタンゴ・フォルクローレ。タンゴは、ヨーロッパの祖先達の音楽とヨーロッパ自体に対する憧れと劣等感がアフリカのエネルギーとぶつかってできた面があると思います。しかし、ひたすら憧れ、願わくば同一化したいのではなく、クリオージャとなって地元と混血し、現状肯定をします。タンゴの「泣き」は韓国の「恨」に似て言葉通りの「泣き」や「恨み」でもなく文化のありようです。
フォルクローレはもっと素朴に歌に・踊りにひたすら奉仕します。環太平洋でアジアの要素もあるのかもしれません。自分でバイオリン状のものを作ったりしているそうです。チャカレーラを峰・高場さんと一緒にやったときもとても楽しかった。
タンゴを作ってきたマエストロ達がどんどん他界し、タンゴが「世界遺産」になってしまい、世界中に、薄まりつつ拡散する状況、現代性に満ちて、複雑でかつ純度の高いフォルクローレをやっているのが現在南米ではなくイタリアのグループだったりすることも象徴的です。
もう一つの行き先がブラジルのショーロ。器楽として発展した面がつよいショーロは、その名の通り、歌でなく楽器で「泣かせる」。歌に劣等感を持っていることも共通事項。それに加え、「うまいなんて当たり前さ」と気取っていたい男子性も。(私が言うのはちょっと違うかもしれませんが・・・)
そしてリハビリ成功?
写真は荒谷良一さんです。
今後、さとうじゅんこさんを加えた歌シリーズ(2/24から)、峰万里恵・高場将美さんとの歌シリーズ(3/26から)、ベースアンサンブルに加わってもらうこと(2/27 エアジン)、ジャン・サスポータスさんとのセッション(3/18)、ヨーロッパのインプロバイザーとのセッション(今秋から)などで、喜多さんとのリハビリ旅行は続く?