35年前に2人の友人(岩本次郎:ドラム,宮崎に祖父母がいた。宮本新:ピアノ、劇作家の宮本研さんの息子、二人とも今、どうしているかな?)と宮崎に来たことがある。どういう理由でどういう行程で来たのか,全く覚えていないが、宮崎駅前のタクシー乗り場をなぜか、よく覚えていた。客待ちをしている運転手さんが数人しゃがみ込んで、地面をじっと見て真剣に話し合っている。なんだろうと、覗くと蟻の行列を観察していたのだった。現在、すっかり様変わりをした駅前だったが、今でも客待ちのドライバー達が車から降りておしゃべりをしていた。なんとなくうれしかった。そういえば、今は、客待ちの時、車を降りないね。
その駅前にLIFE TIMEというジャズの店があり、三人でこわごわ入った。オーネット・コールマンの大きな横顔写真があった。三人とも当時オーネットに夢中でまね事を始めた頃。とてもうれしかった。何の因果か、音楽を続けることになった私は、早々に「ジャズ」を諦めることになる。高校時代から本当にずいぶんたくさん聴いたし、なにより好きだった。世の中の流れと連動している音楽として惹かれていた部分もあるだろう。フォーク(新宿西口地下は家からも近かったのであの大きな運動も知っている)より惹かれた。
世の中はちょうど70年安保闘争、新宿騒乱罪などで揺れていて、ジャズと黒人運動、マルカムXやリロイ・ジョーンズとミンガス、ドルフィ、オーネットを同じように見ていた。小学生の頃、東京オリンピックがあり、優勝した黒人選手が黒手袋でアメリカ国旗に拳を挙げていた記憶も濃い。
興味を持つと昼食を抜き小遣いを工面して、とことんLPを買いあさり、本や雑誌を読み漁り、飽きたらず銀座のイエナで外国のジャズ雑誌・本を買い英語を勉強した。自分も演奏をやってみたいと思うのに時間はかからなかった。(今と変わりない?この性格)
フリージャズは「既存の権威をぶちこわせ」という黒人の叫びという公式を素直に信じていた。今、ジャズの歴史を見るとちょうど音楽の自由を求める時期と黒人運動の高揚期が一致していたことがわかる。黒人権利主張ジャズの代表のようなAACMのジョセフ・ジャーマンと共演したときに、「えっ?あれ?」と感じた理由だろう。中上健次が言うように「破壊せよ」とアイラーは言わなかった。創造せよと言ったのだ。
フリージャズがもたらした重要な要素は、奏者の国や民族への眼差しだろう。AACMは、日本人なら日本の楽器をやれ!と言っていた。しかし、よく考えると彼ら自身は打楽器以外は西洋ヨーロッパの楽器をやっていたではないか。
私は自分の腹の底に、骨の髄に「ブルース」や「4ビート」が無いことにはすぐ気がつく。学べばできるだろうが、所詮それでは限界があろう、と考えた。私にしかできないことをやりたい、という気持ちの方が大きかった。「ジャズ」の良さを本当にわかっているので、なまじ「できない」という結論。
ジャズをよく聴いていたころの最後のヒーローはデューク・エリントンだった。それはジャズという範疇を軽々と超える大きな音楽であり、アドリブのないものもたくさんあるが、そんなこと関係なく最高の「ジャズ」だった。音楽の形態や方法としてのジャズの良いところはたくさんあるし、身体に蓄積もかなりあるためだろうか、20年くらい前にジャズをやってみようかと,迷ったことがあった。客観的に眺めることができるので、今ならできるかもしれないと思ったのだ。
そのころに再びLIFE TIMEへ行った。今考えると冗談のようだが、梅津和時・板橋文夫・小山彰太という共演者だった。引き続き、林栄一・小山彰太らとグループを作った。黒田京子・前田ユキを加えた事もある。結局、迷いは迷い。再確認に終わり、以後「ジャズ」には手を出していない。(アケタさんに頼まれて数回4ビートを弾いたことはあり、その内2回がCDになった。そして最後の2枚組がなんと「LIFE TIME」という題名で、この店の常連さんの写真がジャケットに使われているのだ。)
そして今回、(なにかと因縁の)「LIFE TIME」草野さんから電話があり、小山彰太さんと一緒に来てくれないかという。演劇公演でやってもらいたいと言うこと。ドラムは、私にとってジャズの代名詞のような存在。極端に言えば「敵」。思えばいままでろくに共演していない。思い出すだけで富樫雅彦さんのグループで1年弱、豊住芳三郎さんと数回、そして前出の小山さんとの共演だけなのだ。
どうしましょう? (続く)