水谷隆子さんの遺作CDが届きました(サンフランシスコの日影晶子さんより)。バイオリンとのデュオ、すべて現代曲、一人を除いて皆、1970年以降の生まれの作曲家。見事な演奏です。共演者、作曲家との共感・発見に溢れています。きっと作曲過程でずいぶんミーティングがあったことでしょう。こうやって音は残るのだな、という当たり前のことを感じました。そして隆子さんの場合は、本当にきちっと生きたという何よりの証明になっています。
最初にお会いしたのが、沢井一恵さんとのセッションの時。内弟子だったため、手伝いに来ていました。終演後、「私は、ああやってお箏をバチで叩くのは嫌いです」と私に言いました。そういう風に素直に言ってくることが好ましかった。それ以降、おそらく一番多くの時間と場所を共にした箏奏者でした。内弟子を出る時には、車に楽器を積んで日本中を回る、門付けをする、と言って「自分探し」の旅に出ました。
ある宗教の環境で育ったためか、自分を厳しく見つめる姿勢は常にありました。音楽と宗教の葛藤も有ったことでしょう。一緒にワルシャワに行き、アバカノヴィッチとのコラボレーションをたのも想い出です。十七絃2台とコントラバスのための曲「For ZAI」を委嘱してくれ、その拡大版を福岡アジア美術館のオープニングでZai本人と工藤丈輝と演奏しました。ミッシェル・ドネダとの演奏もありました。そのころには「バチで叩く」ことも普通にやっていました。「叩きたくないのだけれど、叩くのだ。愛情を持って叩けば、答えてくれる」という風に考えてくれていたのだと思います。最初に会った時の会話をダシにしてよく笑ったものです。
「アメリカに留学できるのだけれど、だれか、良い先生を紹介してください」と言われ、ウェスエリアン大学で教えていたアンソニー・ブラックストンさんとカリフォルニア大学で教えていたバートラム・トゥレッキーさんを紹介しました。結果、ブラックストンさんを選んだ時にも、隆ちゃんらしいな、と思ったものでした。サンディエゴの温暖な気候で温厚で陽気でオープンなトゥレッキーさんではなかった。
私がサンフランシスコに行ったときにも来てくれ,一緒に演奏しました。その頃はもう病気がそうとう進んでいたはずです。ニューヨークに一恵さんと行ったときも手伝いに来てくれ、オフにアメリカ人の発明家グレッグさんと結婚した新居におじゃましました。
積極的に助成を取って日本でも演奏会を何回もしていました。助成を取る事務は本当に大変だったでしょう。 自分が持っている時間を考えれば、 そんなことはたいしたことない、音楽が大切なのだと心から思っていたのでしょう。頭が下がります。最後に共演したのは、代々木上原での現代邦楽の会だったでしょうか。作曲家に頼んで、即興の場面を差し挟んで2人で遊びましたね。思えばお世話になったのは圧倒的に私でした。お返しをしなければなりませんが・・・・・