島唄ライブ@ポレポレ坐
西和美さんの奄美島唄ライブがポレポレ坐であった。ジャバラレーベルの森田純一さんとマイキーのプロデュース。当然行く。(韓国帰りの瀬尾高志もさそう。)奄美の音楽のCD制作、今や50枚を数えるジャバラレーベルの初めの数枚はなんと私だった。「パナリ」「八重山游行」「コントラバヘアンド」「ペイガン・ヒム」「オーセンシャス」はジャバラ。「ジョエル&テツ」はジャバラと音場舎。
亡くなってしまった博多の西尾次男さんの発案で石垣島でのライブが行われ、沢井一恵さんと出向いた。森田さんも参加し、小川洋さんを伴って録音を敢行。記念すべきジャバラ初録音となった。沢井忠夫さんの急病で一恵さんは途中で帰ったが、私はそのまま残り、西表島浜辺で録音。その時のインスピレーションが「オンバク・ヒタム」に繋がっているのだから、大事な大事な旅だったわけだ。
モリジュンの関係で、沖縄の演劇集団「衝波」に呼ばれ一緒に行ったこともある。そのエピソードはここには書ききれない。南へと足を伸ばしシンガポールにもバリ島にも同行した。ザイにあったのもその時だ。そもそもモリジュンに最初にあったのは韓国録音の時。ソウルで釜山で何度も忘れられぬ体験を共にしている。思えば、「オンバク・ヒタム」領域の北日本以外は共有していることになる。
ある時、森田さんの運転手も兼ねて奄美へ行くことになった。「観光化がうまくいっていないので、かえって良いんだよ」という奄美は、異界だった。20キロくらいでのんびり走る車、交差点で曲がるときには青信号でも一時停止。初めの1~2日はイライラしたが、その後、違和感なく馴染み一緒になってのろのろ運転していた。
里国隆さんの使っていた「立琴」を調べにいろいろな唄者の所を訪ねたり、元祖六調のロックオジイにシビレしたり、唄会に参加して「ミキ」を飲んだり、もちろん黒糖焼酎を毎晩飲み、鶏飯を食べた。それはそれは楽しい日々だった。大成瓢吉さんの画集のためのエッセイを名瀬の郵便局からFAXを送った想い出もある。田中一村美術館もやっと着工したばかりだった。
いまやSONYの看板の一人、中孝介さんが学生服姿で母親と森田さんに会いに来て、歌を聴いてくれということになり、集会所のようなところで聴いた。良い心持ちになって、集会所の屋上で涼んでいると、向かいの海で、ボートの練習をしている。10人乗りくらいの手こぎボートだ。男子生徒のボートと女子生徒のボートが橙色と桃色の夕暮れの中でキャーキャー言いながらだんだんと夕日に向かって消えて行くのを夢心地で眺めていた。忘れられない風景。
そして時は巡り、ポレポレ坐での島唄ライブ。西和美さんは名瀬で料理屋「和美」をやっていて、行ったこともある。ポレポレ坐カフェは満員。おそらく奄美出身者が8割位いるのではないだろうか。全員が歌を共有していて、一つ一つ納得したり、思い出に浸ったりしている。羨ましい。
それぞれいろいろな理由で東京暮らしをしている奄美出身者達には特別な時間だったのだろう。その空間におじゃましてお裾分けをいただいた気がする。アンコールでの唄は、和美さんの18番だが、このごろ歌っていない、ということもあるのか、それまでの唄と全く違うモードになりゾクッとした。そしてあるところで詰まってしまった。
もともと奄美は、薩摩藩の命令でサトウキビしか作ってはいけないというプランテーションだった。サトウキビで栄え、歓楽街が生まれ、ブルースが生まれた。アメリカ南部の綿花プランテーションからブルースが生まれたのと似ている。
今日から,マイキーとモリジュンは奄美へ行った。帰ってきたら、土産話と一緒に、和美さんのアンコールの話も聞いてみたい。何か大事なことがある気がする。