続き

日本の(音楽)状況はかなり『遅れている』。師弟関係、音楽教育機関、楽器商・レコード会社・諸々音楽関係者の情報・勉強不足あるいは独占。結局は、お金にまつわる囲い込み、情報・仕事を有利にしてきた既得権保守などに起因しているところが多い。ムダなことだ。時間にとっても才能にとっても良いことはない。いや、そのために、心から楽しむ「歌」や「音楽」が生まれ出なかったりするのだったら、罪なことだ。理不尽な戦争状態の国、飢餓状態の人たち、楽器など手に入る可能性のない国だってたくさんある。

ジャズだのクラシックだの言っていること自体がムダ。即興だの作品だの言っていることも同様。分野を横断して活躍している人はたくさん出てきているし、そんなこと自慢にもならない。当たり前。ジャン・フランソワ・ジェニー・クラークがパリのコンセルバトワールで、フレッド・バン・ホフがアントワープの大学で、マーク・ドレッサーやフレッド・フリスがアメリカの大学(院)で教え、現在クラシックベースの代表エドガー・メイヤーはブルーグラスを嬉々として弾き、スウェーデンのベースの巨匠・作曲家のテッポ・アホはインプロに興じている。

自戒と反省を込めて言おう。クラシックに、現代音楽に、ジャズに、即興に、興味があれば「やっちま」えば良い。誰も止めはしない。必要充分な情報はこの国では現在いくらでも手に入る。相手に対する敬意をしっかり持ち、何が知りたいかハッキリさせてから出かければいい。うまく言葉に出来なくても自分を担保にする覚悟があれば、通じるはずだ。いかにも、相手は手強い。手強くなくては張り合いがない。自分が感じるそれぞれのエッセンスをグイッと?もう。伝統から盗まないでどこから盗む?ピカソの豊かな人生と、新たなものにのみこだわったジャクソン・ポロックのアル中と短命。

ミッシェル・ドネダからメールあり。パリのポンピドゥーセンターIRCAM(ピエール・ブーレーズが作った組織)でのインプロヴィゼーションコンサートおよびシンポジウムに行っているとのこと。ベニアト・アチアリさん(フランスバスク地方の声)も来ているそうだ。バール・フィリップスさんはニューヨークから。ジョー・マネリさんの追悼イベントに来ているとのこと、ジョーさんは微分音程を使って即興をするスケールの大きな、そして愉快な古き良きアメリカ人だった。

「西洋クラシック音楽」あるいは「西洋文明」に対するオルタナティブを世界中が求めている、いや、必要としている。サイードの言うオリエンタリズムや、怒濤の勢いのグローバリゼーションを乗り越える方法を探っているわけだ。流行や趣味ではなく、「必要」だ。とりあえず足元を見て、自分の身体に聴いて、今・ここ・自分にしかできない、しかも、役に立つ音楽を考えたい。

日本もだんだん階級社会になりつつあり、職業の選択は限られ始めている。私のようなものが音楽に関われたのは、ただただ時代が良かったと言えそうだ。この例外からだからこそ見えるものだってあるだろう、という通行手形。

このブログで署名運動を紹介したパリ近郊モントレイユのスペース「レザンスタン・シャビエ」は、規模を縮小して再開しているようです。5月にミッシェル・ドネダと久田舜一郎(小鼓)と私のトリオで出演が予定されています。よかった。モントレイユは生誕100年のジャンゴ・レナール(〈ラインハルト〉ってやっぱり違うよね。)の街。

↑の写真は南谷洋策、川崎市岡本太郎美術館にて

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です