3つ前のエントリー「無言唄」の話の続き。
「若き古代」日本文化再発見試論 木戸敏郎 春秋社
より抜き書きします。大事なことが書いてあります。こういう伝統を持っていることには背筋がピンとなります。木戸さんは、国立劇場で復元楽器などの刺激的なコンサートをプロデュースしていた方です。
「日本の伝統音楽の演奏において、『虚階』という特殊な演出がある。演奏家と聴衆との間にあるコンセンサスが出来ているとき、例えば同じリズムパターンを反復しているとき、その一部分を、音を出さず沈黙の状態にすることを『虚階』という。聴衆は音がないフレーズを、自分の想像力で補って次のフレーズに繋げる。」
「ただ一方的に聴かせるだけでは聴く方もただ受容するだけになる。眠くもなろう。虚階は聴くものの意識を活性化するための仕掛けである。物理的には聞こえない音を聴く、禅宗では鳴かぬ鳥の声に譬えられる観念的な演奏である。」
「雅楽における有名な例が『残楽』(のこりがく)である。同じ曲を3回繰り返す。一回目と二回目は前学期がまともに合奏する。ここで聴衆は充分曲の様相を頭に入れておく。三回目は旋律楽器が徐々に脱落して拍子だけが残る。聴衆が拍子を聴きながら、自分で記憶している旋律を頭の中で拍子に合わせて演奏を楽しむ。」
「御神楽の笛と篳篥(ひちりき)の『縒合』(よりあい)も特別な場合は虚階で演奏される。笛と篳篥のデュオである。最初は二人共まともに演奏をしている。頃合いを見計らって、どちらから仕掛けてもいいが、徐々に音を小さくして、やがて音のない虚階に持ってゆく。仕掛けられた方もそれをうけて虚階で対応する。音は出していなくても曲の通りに指は動かしているし、管の中に息を通している。やがて、どちらかが通常の演奏に戻すと、もう一人の方も通常の演奏に戻す。そのとき二人の演奏がぴったりと合っていなければならない、という。」
「聲明の唄(ばい)の演奏に声を出さない『無言唄』がある。唄師は正座から唄を歌う姿勢(安座)に移り、手文を開いていかにも唄をうたいだしそうな様子をして、実際には声を出さないで心の中で観念的に演奏する。演奏の進行に合わせて手文の頁をめくる動作もする。うたい終われば手文を閉じ、正座に戻って終了。ジョン・ケージの『四分三十三秒』のようだ。聴衆を挑発すること最たるものである。」
「一部分が欠落することによって存在が増すためにはカノンが位相を獲得していることが必要である。スリリングな演出だ。」
積ん読(つんどく)していたこの本を開くきっかけをMHさんが作ってくれました。オブリガード。