音のない音楽

朋さんから無言唄の話を聞いた。声明の秘儀扱いのもの、昨年横濱で立ち会ったそうだ。なんと音を発しない声明だという。ケージの「4分33秒」の何百年も前にこういうものがあった。奥深いものだ。

沢井一恵さんは色紙にサインを頼まれると「無絃琴」と書く。(内田百閒の小説とは関係ない)海童道さんは、風の音になれば良いという考え、ちょっと違うかもしれないが志ん生師匠は高座で寝てしまったのを客は「寝かしておけ」と楽しんだという。そういえば、海童道さんも舞台でわざと寝たふりをしたそうだ。あまりに他の演奏家(演奏家という言葉さえ認めていなかった)が楽屋でリハーサルばかりするのに腹を立ててとのこと。

一恵さんは「4分33秒」を録音している。↑

この時は、箏アンサンブルと一緒で、みんなで箏を前にじっと沈黙して時の過ぎるのを待ったという。この曲の演奏例として、ピアノの前に座り、蓋を閉じて時を計る人、鍵盤の上で指を動かす人などあるそうだ。

一方、エヴリン・グレーニーさんのような聾唖の音楽家、ユジャン・バフチャルさんのような盲目の写真家http://www.zonezero.com/exposiciones/fotografos/bavcar/index.htmlもいる。

音を出すのは、演奏が終わった後の沈黙の深さのためと感じるときがある。特にノイジーな音に終始したときとか、カオティックになるときとか。それに関して、ヨーロッパの即興演奏者と違いを感じることがある。日本人の即興演奏家とは、バシッと「決まって」終わることが出来たときに、何とも言えない満足感を共有する。その満足感に満ちた無音の状態の中で、あろうことか、ヨーロッパのミュージシャンが音を出し演奏を続けようとすることが何回かあった。この違いは何だろうと思ったものだ。

音楽を味わうとは、その時出ている音を聴いているだけではない。荘子の音楽観を思い出す。天籟・地籟・人籟と分けて、出てきている音ではなく、音を出させるその根本を問うている。

何はさておき、音を出すことに必要不可欠なのは、音のないことと対峙できるかとの問いだろう。それは身体がそこにない(空気を追い出していない)こととダンサーが対峙できるかの問いと同じく。

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