黒沢美香さんの「起きたことはもとにもどせない」ミニマルダンス計画 駒場アゴラ劇場で14日間。ご自身が出演する「耳」シリーズが3回、初演の振り付け、旧作の振り付けと大忙しの公演。
昨日、「耳」第1回目として私とのデュオ。シコ・ブアルキの新刊小説のタイトルもこの「覆水盆に返らず」的なものだったと聞いています。(前作同様、和訳を期待しています。白水社さま。)何か同じ意識をシェアしているのでしょうか。
ぶれない、ラジカルな美香さんとの1時間即興は、大変ワクワクするものでした。京都公演のために最初にお会いした時、こう言われてビックリしました。「で、テツさんは、今回は何を演奏するの?」「何」は、曲のことではなく、「どの楽器」という意味なわけです。
30年コントラバスで暮らしていて、それが当たり前になっている私には、「ショック」でした。とっさに思い出したのは、楽器にあまりにも頼りすぎている演奏家を批判する海童道さんのコトバでした。おまえの、さも大事にしているその楽器を取り上げたら、おまえは音楽家でありえるのか?という主旨でした。
踊りとは何?人間とは何?生きるとは何?という、そのくらいゼロに立ち返る意識にいる美香さんは、普通にそう聞いてきただけです。私のダンスとの公演を何回もこっそり観に来ていらっしゃったそうで、私の身体の動きが良い、楽器を持っていなくても良い、とおっしゃる。今回の打ち合わせでは「どちらが演奏家で、どちらがダンサーかわからない」そう言う公演にしましょう、というのが唯一の決めごとでした。
このところダンス公演での演奏が続き、不思議なことに、どの共演者もそう言う言い方をします。工藤丈輝さんは15日スーパー・デラックス用のチラシに「『どちらが演奏家でどちらが舞踏家なのか?』ー昨年のライブ終了後、観客の一人がもらした言葉である。」とほとんど同じコトを書いているし、ジャッキーはメールで、テツがダンスの仕事が多いのは、「It’s because you are a dancer in disguise. Dancers feel right at home.」と書いてきました。
私自身はまったく、まっったく、まっっっったく意識したことはありません。そんなに言われるのはきっと『備わった』ものなのでしょうか・・・・それにしてもこの体型でねえ。あなた。
公演開始。私はすぐに楽器の所に行かない、と言う手に出た。象のステップということが事前に話題になったので、象のステップを(ゆっくり前後に揺れることを繰り返す)しながら楽器と逆の位置に行く、と美香さん(この日はスージーです)が楽器の所にいる。私は身体からでるかすかな音(皮膚を擦る、衣服を擦る、身体を叩く、空気を切る)を出す。二人が交叉してやっと楽器の所へ戻る。ホッとする。
象のステップがその後の空間をずっと支配していきます。大きな柱時計の振り子のような動きは決して前後左右に移動する意志はなく、また、性行為のように終結に向かってだんだん早まるコトもなく、内へ向かってゆっくりゆっくり掘り下げていくよう。とても「振り子」的なバッハの無伴奏一番の前奏曲を身体の振れを極端にして弾いてみる。振り子の振幅をだんだん大きくすること、と不意に止めることによって今起こっていることが強調されるという方法。演奏会ではほとんど不可能です。
マイブームの「楽器の横弾き」も二人で。私が弓を1本スージーに渡すと反対側から弾いてくれた。音を出しながら二人とも立ち上がり、私が楽器を足で動かす。操りボートを動かす?地底探査?何ということをやっているのだろう、自分でもわかりません。スージーはその後も弓を日本刀のように、バットのように早く振り、空気を切る音を楽しんでいます。巧まざるユーモア。
5拍子の打楽器的奏法、クッコリにもシャープに激しく踊っている。反応が大変早いのだ。早すぎて、こちらが追いかけるはめにもなる。これが骨に転移の細胞を持つ人間の身体なのか?だれも想像できない。
ずいぶんリラックスした場面も多い。ユーモアとは、ヒューマン、ヒューマンの語源はヘソ、と言う話を聞いたことがある。目下カネフスキー中毒の私は、彼の映画に使われていた「炭坑節」を弾くと、スージーは両手の極小の動きだけで盆踊りを始めるし、アルゼンチンのカルナバリートのリズムを楽しんでいると、私の白髪を整えに来てくれたり、他にもいろいろいろいろとありましたが、あっという間の1時間でした。
客席になつかしい人に何人も会うこともでき、前向きになれました。美香さん、スタッフの皆さん、ご来場の皆様、ありがとうございました。美香さんは連日の公演なので打ち上げもなく解散したので、早々に帰宅。興奮気味の家族と「塩」で痛飲してしまいました。