ちょうど、12月15日スーパー・デラックスでの工藤丈輝さんとのデュオもあるので、8月19日のブログから中途になっていたそれ以降のツアーの様子を書きます。
そもそももう一人のヒツジ・工藤丈輝さんとは劇団TAO太虚の「白鬚のリア」第3部で会った。リア王の娘を演じていた。時はバブル末期。白鬚橋を渡った所にある住友ベークライトの一万坪の工場跡地を舞台にさまざまな演劇の実験を行った。最後の大きな公演が若松武(現在は若松武史)主演のリア王3部作。音も贅沢で、沢井一恵と箏アンサンブル、板橋文夫、伊藤啓太に毎日来てもらってのライブ。隔世の感あり。
ともかく、2009年夏、北海道ツアーをモケラモケラのプロデュースで実施、初日は小樽のダラスペース、そして2回目から話を再開します。
東川は旭川の隣町、何回も印象的な演奏会をさせていただいた澤田さんの叢舎があり、「写真甲子園」http://town.higashikawa.hokkaido.jp/phototown/koshienofficial.htmでは知人の楠本亜紀さんが審査員をしているし、そしてなんと言っても当麻町には我がテッチ師匠がいる「ギャラリーかたるべプラス」http://www.katarube.ne.jp/がある。6万6千坪の森林をもつ語るかたるべの森、の中の施設。37人の知的なハンディを持った人が通所しています。
瀬尾高志さんと行きみんなと遊んだり、テッチ師匠とライブペインティングセッションをしたり、モケラモケラに来てもらってワークショップをしたり、いろいろワンダーフルな経験をさせていただいています。
今回は工藤丈輝さんと二人で、お昼に施設の人たちと、夜はワークショップ。1日お世話になります。それはそれは大変な仕事なのでしょう、いつも担当してくれている方が、病気復帰したばかりと聞きましたが、そんなことはご当人はおくびにも出しません。本当にお疲れ様です。
じょじょにみんなが集まってきます。床に座っていると隣に来て「今日はさいとうてつさんのためにずっとお掃除をしていましたよ」と言ってくれる。うーっ、何とも暖かい。
みんなが揃うとそれだけで熱気が渦巻く。「この場に従うしかないよ、」と工藤さんには言ってある。まず私は楽器の後ろに隠れながら楽器と共に少しずつみんなの方へ移動、工藤さんもとなりで正面を向いてゆっくり進んでいる。「キャーっ、ギャーっ!」あらん限りの声ですごい歓迎ぶり。
その感じで、みんなのエネルギーのまま会は進んでいった。最後の方でわたしがサルプリのリズムをやると、一人が手に持った手ぬぐいを回しながら踊り始めた。すると我も我もとサルプリの輪が拡がる。こういうことが自然に起こる、なんとも感動的でした。
ツアー3カ所目:札幌・盤渓近くの「やぎや」http://homepage.mac.com/onnn/ONN/Yagiya/yagiya.htmlでの演奏。通行止めになっているトンネルの隣。このトンネルは、肝試しに使ったり、ノイズのパーティで使ったりもしているそうだ。そこに、何とも魅力的なご主人が登場。モケラモケラを設計したという噂のひと。安価に、面白い建物を建てる。モケラを見ればすぐわかる。山羊も、ウサギも、猫も、犬も、鶏も、楽しそうに暮らしている。山羊は本当にガラガラドンのよう。
舞踏の人なら、ほとんどの人がこのトンネルを使わずにはいられないでしょう、と言うわけで、みんなで掃除。私もコントラバスの響きを試したくてうずうずしていたが、どうにもこうにも湿気がほとんど100%。ここで30分演奏したら、楽器がフニャフニャな水ベースになることは請け合い。ちょっと試して諦め、韓国の銅鑼で演奏することにした。こういう時のためにカーボンファイバーのベースを持ってくるべきなのだろう。古い木を使ったコントラバスという楽器の最大の弱点だ。弱点があるから良いのかもしれないが・・・・。そういえばミッシェル・ドネダは、アフリカに行って野外演奏する時は、セルマー社でなくヤマハ社のソプラノサックスを使うって言っていたな。
第1部トンネル:ふんどし姿で土まみれの工藤さんがトンネル途中の土が埋められた所に登っていると、どうしても炭坑強制労働者のように見えてしまう。そんな中で韓国のシャーマンから教わったリズムをやるとなにか出来過ぎのようになるのではないかと、やる前は思ったが、場の力は圧倒的で、我々の工夫・小細工などは世迷い言のように蹴散らされる。
工藤さんの松明で聴衆も誘導し、第2部メインのレストラン内へ。私が少し演奏している間に人間の服を着て工藤さんも登場。ひとしきり即興の時をもつ。
第3部、エピローグとして屋根のある作業場に移動、背景が緑の牧草地なので、最後は工藤さん、人間を止めて動物に戻り、丘を四つ足で駆け上って行ってしまいました。
終演後、カレーやグラッパをいただき、そのままベースキャンプ・モケラへ車で帰還。ミネコ隊長の運転を激励すべく大正・昭和の流行り歌を歌ったりして賑やかな帰途でした。意外な歌が全員の共通記憶だったりするのがとても興味深いことでした。