あるトーンで覆われていたのか

瀬尾高志とまたまたリハーサルという名の音だし会。明日の大体の流れをおさらいしたり、ひらめきで追加したり、削ったり、あっという間に時が過ぎる。その後は飲み会。近所の六号通り商店街の酒屋で石垣島の「請福」、奄美の「浜千鳥の歌」が買えるご時世になっている。現地に行かないとなかなか手に入らないような泡盛・黒糖焼酎がこんなに手軽になって良いものでしょうか?ちょっと複雑。

飲み会には決してふさわしいとは言えないワイダ監督・カントールとクリコット2の「死の教室」を瀬尾が観たいというものだから、引き続く話も、どうしても本格モードから抜けられない。やっかいで重たい話題ばかりになって、結局、思えば濃い時間が三日間続いてしまった。浮かれてばかりではいられない、というお達しか。私は、昨夜の通夜から引きずっているものが確かにある。おまけに、海童道の新CD「無装飾・無調音」も手に入れたばかり。即興がどうのこうの、など問題にもなりはしない。

昼食を済ませ、ピアソラの映像で活を入れ、出発。銀座に着くと、いつもの駐車場探し。悠玄の近くに新しいコインパーキングを発見、しめた、と思ったが、よく見ると、1時間1500円!「飲み放題より高い!」という瀬尾の名言が生まれた。

悠玄には120人の作品がひしめき合っていた。それぞれの人の思いのこもった小品があるわけだから大変。全体の作品に挨拶をしてから準備に入る。今日は午後からずっと、椿座という朗読集団が「ことば」を置くパフォーマンスをしていたとのことで、演奏の最初に引き継ぎの儀式のように、一緒に音とコトバを合わせてライブ開始。

ブランドショップやH&Mというような新しい銀座ではなく、古い銀座が残るこの界隈、きっとタンゴが似合うと思い、久しぶりにピアソラや自作タンゴをいくつか演奏、2人だとずいぶん楽だ。その後ブラジル、西覚寺、モロッコ・グナワミュージック、ファド、横弾き「かいやぐら」などを演奏。「楽しい」「楽しい」と喜ばれる。瀬尾のおかげだろう。こちらも嬉しくないはずはない。画廊の佐藤省さんの親しい仲間たちと話すのは本当に楽しいし、ビックリするような情報もある。また来年ね、と言われ、来年はどういう私でしょうか?と思う。

帰りきらない人たちと、階上のシェリークラブで打ち上げ。私のテーブルには、日本で生まれた台湾のプロデューサー、韓国の伝統ダンサーそしてその関係者・友人たちが熱く会話を始めている。日本の良いところ・悪いところ、アジアのこれからなどの話。何か一緒にできることは、と言う方向にも濃い話が進む。

翌日、昼過ぎ、恵比寿の東京都写真美術館でセバスチャン・サルガド展「Africa」を観る。衝撃的な作品ばかり。ドキュメントとして現実を切り取り、世に問う要素と、アートとしての表現のことを考えてしまう。あまりにも効果的で、あまりにも「決まっている」写真に気持ちがいっぱいになる。マイキーも瀬尾もかなり参っている。思えば、シコ・ブアルキとミルトン・ナシメントが詩を寄せた写真集「terra」で彼のことを知った。

しかししかししかし、帰りには恵比寿ビールを飲み、ソーセージなどを食ってしまう私たちである。

時間をつぶし、マイキー推薦のレイトショー映画「動くな、死ね、甦れ」カネフスキー監督を観る。これには心底参った。何故こんな大傑作を知らなかったのだろう?このくらい思いを込めて、内容を充実させ、工夫を凝らし、即興性も活かさなければ、本当の「作品」には成らない。重くのしかかってくる反省と共に、人間って捨てたものではない、こんなものが創れるのだ、と嬉しくもなる。3本の映画を撮ってどこかへ行ってしまったという監督が今の私と同じ歳の作品である。

最後のシーンで、監督自身が「このままカメラを回せ、追え、よく見ておくのだ」という声が聞こえる。もうドキュメントなのか、フィクションなのか、全くわからない。

あっ!そうだ!!これはカントールと同じ手法ではないか・・・・この濃い3日はひとつのトーンで覆われていたよう。フィクションとドキュメントを超えたもの、即興と作曲を超えたもの、そして、そんなことが一切問題にもならない、動機に溢れた力強いものに強く憧れる。

おしゃべりする気力もなく、知恵熱に浮かされつつ帰った。

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