オンバク・ヒタムと吉田一穂

今回のオンバク・ヒタム公演は吉田一穂なしにはあり得ない。だんだんそんな気がしてきた。泯さんの参加も「吉田一穂」という一点に絞ることができる。

現時点でいちばん手に入りやすい岩波文庫の吉田一穂詩集は、いくらなんでも取っつきにくい。なんだかわからない、という意見に大賛成。一つの言葉に行き着くまで何回も何回も、何年も何年もかけて考えているのだから、最終形だけをみせられても、よっぽどの人を除いて、わからないのが当たり前。

例えば、「山中の塩」というのは、これだけで一つの詩。はい?そうなんです。一穂を読んでいる人なら、削りに削ってこの一言に行き着いたことが想像できる。「山の中で塩がザクザクと結晶されるのに何万年かかって・・・その山が海だった何十万年前を思え・・人間の血の中にある塩を思え・・・おまえが海に住んでいた頃・魚だった頃を思い出せ・・・人間の中の自然・・その鉱脈を自らの身体に感ぜよ・・・とか」そういう思考回路だろうなと思って「やったー!」と言う感じで読める。しかし、初めての人に「山中の塩」とだけ言っても、はあ?でしょう。まったく。

一穂さんの詩の到達点「白鳥」の15編は、どれも3行。二段組の本なら見開き状態で全部収まってしまう。田村圭司さんの「吉田一穂 究極の詩の構図」(笠間書院)だと白鳥だけで140ページにおよぶ解説になっている。

ともかくきびしく突き詰めていった感がある一穂翁だが、最初は短歌だった。それを否定し、三角形が美しいという方法を採択した。自分の身体にある叙情性を完全に乗り越える方法を創作しようとした。なんと茨の道を選んだことか・・・・

「わが国の言葉といふものは、母系家族に発した女性語なのであらう。静かで優しく、悲しみを含んだ感性語である。論理的な抽象、能動的な開陳に対して、具象的に感応し、消極的に古風である。・・・・・言葉で感じ、語法で考へる、この感受・発想の形式は、意識の中核を成すところの、民族の「法」の根幹であり、その性格と運命の、生の方法を組織する表現体である。まさに国語は母なる原罪である。・・・・短歌は母のかなしいリリックである。」

「喉にからむ嗚咽の韻、傷ついて成る日本の真珠、短歌は悲哀の文学である」

「悲哀はカタルシスである」「水のごとく感情の弱点を浸蝕してくる」

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