半眼と微笑と

かくして、モケラツアーが始まった。

また吉田一穂から引用。「半眼微笑というのは俺が発見した原理だね。仏様は眼を半眼にして唇に微笑をたたえている。こういうことは人間の顔で、できないことなんだ。笑うときには、眼が笑うんですよ。眼の筋肉がほぐれちゃう。眼がきちんとしていて、こわい眼をしていながら唇が笑うということは絶対にあり得ない。これを同じ面の中でこさえている。仏様というのは不思議でならない。この秘密を発見したんだ。ずっと昔それを”半眼微笑”と名づけた。半眼は認識だ。厳しい認識だ。微笑は愛だ。愛と認識が一緒になることはない。それで一種不思議な魅力を仏様はもっている。」

私はどういう訳か、他のジャンルと一緒に演奏することがキャリアの初期から多かった。どんなときでも私は、薄目を開けて他者がやることを観ながら演奏することにしている。決して焦点を合わせずに、しかも、ぼんやりと全体を見渡すためには、薄目が一番良い。焦点を合わせると「説明」「納得」「言葉」の演奏になってしまう。すると必ず「遅れる」。遅れることは即興セッションでは御法度。しかも「理解」「納得」は、身体が硬くなる。理解・納得したとたんに「終わる」。先に行けなくなる。

自分の輪郭をぼやかし、身体を柔らかく脱力し、ふんわり浮かんだようにしたい。全体を観ながら、先で「合わせる」ようにすることが良い結果を生む。その時、口元が微笑していたらどんなに良いだろう。空気さえ味方になってくれる。ユーモアはヒューマン。

最近、イタリア系の科学者が発見した「ミラーニューロン」。この考え方は非常に興味深い。この「物まね神経」を媒介に考えると、さまざまなことが見えてくる。踊っている人を見ていると、見ている人の「踊る」神経・細胞が動いているというのだ。そうか、私はダンサーとやっているときは踊っていて、絵描きとやっているときは描いていたのだ。逆に、彼らは「演奏」していた、ということになる。さらにいえば、相手に「踊らせ」「描かせ」ることもできるし、彼らの「演奏」を私がすることもできるわけだ。

いままでは、「ジャンルは違っていても、目的は同じなんだ」という言い方しか持っていなかったが、これからは「身体」を媒介に話ができる、これは私にとって嬉しい発見だった。

初日は小樽の「Dala Space(ダラ・スペース)」ベトナム出身の芸術家ダム・ダン・ライの私設ギャラリー兼アトリエ。http://www.dalaspace.com

ライさんは笑顔が絶えない。(↑の写真、左)アジアのすばらしい笑顔であり、知恵そして愛なのだ。どんなときでも、周りを明るくする。工藤さんとの共通の友人ザイ・クーニンを思い出す。「クドーさん、ブトーを教えてください」というライさん。ザイのダンスはマレーの武術やシャーマニズムに近いが、舞踏に似ているとよく言われていた。おおざっぱに言えば、アジアのアニミズム的な考え方が、舞踏に親近感を持たせるのかも知れない。虫になり、動物になり、這いずり回り、樹になり、石になり、突っ立つ。そして死・エロス。獣を喰らい、魚を喰らい、植物を喰らい、セックスし、殺し合う「まがまがしき」ニンゲンに対する諦めと受け入れと希望。

私の祖父は商社マンで、サイゴンに駐在していたことがあった。私が子供の時、(嫌々)習ったピアノはSAIGONと言うフランス製のものだった。今度はライさんに戦争のことも聞いてみたい。

この日の工藤さん、小川の向こうから松明をもって現れ、川に入り、服を着てニンゲンの家に入ったが、また、脱いで、小川を伝って山に帰っていった。望むらくは、こういう直接的な表現に「待つ」こと「引くこと」を足して、ユーモア(ヒューマン)に至る方向を観てみたい。

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