座・高円寺の「オンバク・ヒタム」のキャッチコピーに「インドネシアから琉球弧を経、九州の西に別れ、韓半島に辿り、日本海側へと流れる『もう一つの黒潮文化圏』への幻視を音と踊りで祭る試み」と書きました。
事務ばかりやっていると、こういう宣伝文句も書き慣れてしまって、いくらでも書きますが、ここでつっかえてしまった言葉が「祭り」でした。フェスティバルとは違うニュアンスです。常用字解によると、祭壇に手でいけにえの肉を供えて祭ること、ということですが、音でいうと、「まつる」は「待つ」と関係があるのではないでしょうか。もちろん外に出て大いに歌ったり踊ったりするのも祭りでしょうが、神のお告げをじっと待つことが祭りだったという側面もあったのではないか・・・・
共通する音は「ま」すなわち「間」のはず。
「聴く」ことは「待つ」こと、「待つ」ことは「信じる」こと、というのがこの数年、私のモットーとなっています。待つことが祭ることだとすると、信じることと直結しますね。
ストーンアウトのある部分で、5拍子と6拍子が交錯するところが何カ所かあり、ある場所では、5つの音を次の音が来ないのではないかと思うくらい音を出さない。待ちきれないよ、という感覚が過ぎるまで待つ。ここでは、螺鈿隊はめざましい演奏をします。伝統音楽をやっている強みでしょうか。
「伝統から盗まないで、どこから盗むのだ?」とピカソが言ったそうです。日本の伝統音楽から山のように「盗む」ものがありますね。日常的に使っている「打ち合わせ」という言葉にしても能の打楽器の音を打って合わせることだし、「おしまい」「掛け合い」「申し合わせ」「番組」などなど伝統音楽からの言葉を無意識に使っています。
ダンサーは自らの身体に貞く(きく)のでしょう。演奏家も、(たとえ西洋楽器をやっていても、)自らの感覚や記憶に貞く(きく)ことが必要です。
箏奏者との共演で体験したいことの1つです。