箏カルテット・螺鈿隊とのセッションが近づいてきました。アジア・韓国的な私の曲をやってもらいながらも、私としては、いろいろと習いたいことばかりです。微妙な音使い、間の使い方、言葉と音、などなどたくさんあります。
私が時々使う竹の笛があります。それは女性用のあんま笛。男性用と違う音がします。呼子の音とも違います。そういう音の違いが日常的に実用だったのでしょう。
謡曲ではさまざまに音が登場します。尊敬する小鼓の久田舜一郎さんが一番好きだという「砧」。中国の故事にならい思いをこめて妻が砧を打つ音と、虫の音、風の音と落ちる涙が渾然一体となって「ほろほろはらはら」と表されます。すばらしい表現ですね。ちなみに、光崎検校の「五段砧」は箏の古典中の古典。
「絃上」では、琵琶(名器の名が絃上)の音と雨が屋根を打つ音の音程が近いと言って、苫をかけさせ、音がハモるようにします。お礼に爺婆が琵琶と箏を演奏します。「撥音・爪音 ばらり からり からりばらりと 感涙もこぼれ 嬰児も躍るばかりなりや」。これもまた良いですね。
「蝉丸」では、盲目の琵琶の名手・蝉丸が、捨てられて一人琵琶を弾きます。その話から、フランスの現代作家パスカル・キニャールが「巡り逢う朝」を書きます。琵琶がヴィオラダガンバに代わって、サント・コロンブというマラン・マレの師匠の話になります。アラン・コルノー監督の映画が評判でした。
微妙な音使い、音に対する敏感さ、音に対する謙虚さ、という題材が人を惹きつけるいうことは洋の東西を超えるのでしょうか。大きな音に合わせることが当たり前になった近現代、それは権力関係と通じるところがあります。今こそ、小さい音に合わせることが、何かを思い出させてくれる大事な行いになるのではないかと密かに思っています。
「かなしいかな!やがて人間がもはやそのあこがれの矢を、人間を越えて放つことがなくなり、その弓の弦が鳴るのを忘れる時がくるだろう!
わたしはあなたがたに言う。舞踏する星を産むことができるためには、ひとは自分のなかに混沌を残していなければならない。わたしはあなたがたに告げる。あなたがたはまだ混沌を自分の中に持っていると。
かなしいかな!人間がもはや何らの星を産むことができなくなるときがくる。かなしいかな!もはや自分自身を軽蔑することのできないもっとも軽蔑すべき人間の時がくる。」『ツァラトゥストラはこう言った(上)』ニーチェ著 氷上英廣訳 岩波文庫
『徹の部屋 vol.3 オンバク・ヒタム 四匹の竜と』
日時:7月17日(金) 18:30open /19:30start
場所:Space&cafe ポレポレ坐 (東中野駅徒歩1分)
料金:前売3000円/当日3500円 (要ワンオーダー)
出演:齋藤徹(コントラバス)
螺鈿隊(箏、17絃、ほか)
ご予約:ポレポレ坐 tel 03-3227-1405/event@polepoletimes.jp