箏との共演から

ユーラシアン・弦打・エコーズというコンサートシリーズをした。笙・篳篥・箏アンサンブル・ギター・コントラバスに韓国から金正国(ケンガリなど)元一(ホジョクなど)カン・ウニル(ヘーグム)ホ・ユンジュン(アジェン)を合奏。

なかなかムリの多いコンサートだったが、不思議なほどの勢いで乗り切った。神田パンセホールで、場面転換の時にインタビューの時間を作った。「韓国にも箏がありますが、似ている部分はどんなところでしょう?」とインタビュアーが沢井一恵さんに質問すると「冗談じゃない。天と地ほども違うのよ。」と答えたのが印象的だった。

何回かの共演を経て、似た楽器でも音楽の質の違いをイヤと言うほど感じていたのだ。しかり。玄界灘は深いのだ。一方、韓国シャーマンのドン、金石出氏は一恵さんの音を聴くや、即、尊敬した。通じるところには何時だって通じるのだ。私のことも高評価してくれたが「大学院クラス」という但し書きが付いた。やはり頭でっかちで、その場に賭けるものが足りなかったのだろう。今思うと、よくわかる。ワケもわからず、これはスゲー、とばかりに学ぼう学ぼうとしていた。

韓国には、カヤグム・アジェン・コムンゴと三種類の箏があり、指ではじいたり(日本のように爪を付けない)、弓で弾いたり、棒で叩いたりする。以前ここで書いたように、ビブラートや音階や、リズム、大きく違う。

全く違っていたら、客観的になれるのだろうが、ただならぬものを感じてしまうところに何かがあるはず。こんなに違ってしまったが、それ以前のことはどうなのだろう?ヨーロッパ人と接するときも、今は、全く違っているけれど、キリスト教以前のことは?という視点で接すると、興味深いものがあるのと同じだ。

伝説によると秦時代「瑟」(しつ)という25弦の楽器があり、娘二人に与えようとしたときにケンカになったので二つに分けた。それが13弦の箏と12弦のカヤグムになった。ウム、なるほど。

韓国は日本との歴史・政治の影響で、日常的に日本に優越感を持つことが多い。箏とカヤグムに関しても優位を誇る。音楽の元になるであろう言語において、子音も母音も日本の何倍もあるわけだから、抑揚やニュアンスなどはよほど豊富になるだろう。しかし、豊富だから優れているということでもないし、音楽は、勝ち負けではない。

韓国の即興ピアニスト、パク・チャンスさんが千野秀一さんの招聘で来日したとき、1枚のCDRをいただいた。それはパクさんとホ・ユンジュンさんの即興デュオ。88弦の権力的な楽器(失礼!)に対して、堂々と渡り合っているユンジュン氏を聴いて、本当に嬉しかった。民族・伝統楽器が即興的に西洋楽器と合奏する時に陥りやすいところを少しも感じさせなかった。

「違い」はすばらしい。違いから自らを見るチカラをもらい、相手を見るチカラや、これから先のことを見るチカラを得る。

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