不良たちのタンゴの会

恵比寿のNNビル。(NN=エネエネというタンゴの曲があり、「何の某」と言う意味らしい。ペンネームにしていた方もいた。)「中南米音楽」、後の「ラティーナ」日本のラテン音楽最大の情報誌編集部が恵比寿にある。分裂もあったようだが、今日はそのゆかりのスペースでのタンゴライブ。今や、屈指のオシャレな街、恵比寿・広尾は、高場さんが住んでいた頃、「この辺なんて、なーーーーんにもなかったですよ。」と遠い目をして話してくれる。

長らく「中南米音楽」名物編集長として、日本のラテン音楽の普及・啓蒙に最大の仕事をした畏兄・高場将美さんと峰万里恵さんとのトリオで演奏することになった。ピアソラの初来日の前の「中南米音楽」誌は大変充実していて、初心者の私は、多くの情報を貪るように得ていた。タンゴに限らず、フォルクローレもブラジルも、歌詞の丁寧な日本語訳を付けた国内盤を続々と出していた。今ではビックリするような渋いレコードも平気で出していたのだ。

私と言えば、大学は出たものの、ふらふらとベースを弾き初めたころ、また、初めて身内の死を経験した直後だったので、ピアソラとヴィニシウスと古今亭志ん生にずいぶん救われた想い出がある。日本のジャズ界でいち早くピアソラに注目してレパートリーにもしていた高柳昌行さんグループにいた井野信義さんのところに、レッスンに通っていたころだ。

開演前、高場さんは歩道に出てたばこを吸っている。(普通のビルなので)ちょっとわかりずらいため、お客様が通り過ぎないようにという配慮。歩道の遠くからお年寄りがキョロキョロ歩いてくると、十中八九お客様だった。オーバー60〜70が主役。「よ〜っ!」「元気?」などと言いながら、一人二人集まって、煙草に火をつける。40〜60年前、タンゴに心躍らされ、のめり込んだ当時の「不良」達が満面の笑みで狭い歩道を占拠している。微笑ましい光景だ。

「この部屋には、タンゴの霊がいるんじゃないか・・」という高場さんのMCで始まり、メルセデス・シモーネ、ロシータ・キロガ、アダ・ファルコン、カルロス・ガルデル、トロイロなどの名曲を峰さんが気持ちをう〜んと込めて、どんどんと歌っていく。立ち見のお客様もいて熱気あふれ、クーラーをオンにしての快調な一時間半だった。

この不良中年・老人達のエネルギーと批評精神が、日本の(聴く)タンゴ界を支えてきたのだろうし、SPレコードやレアな資料は、世界でも最も集まっているはずだ。一方、公演で来日、一ヶ月二ヶ月と滞在した多くのアルゼンチン演奏家がずいぶん経済的に助かったという。エドモンド・リベーロは、それを元に「エル・ビエホアルマセン」というブエノス屈指のタンゴ・ライブハウスを建て今年で40年を迎えた。

アムステルダムのカレ劇場での「Finally Together」と題されたライブ盤には、本当にビックリした。ピアソラのセステートとプグリエーセのオルケスタが共演している!ガンディーニを含むピアソラセステートは、飽和状態にありながら、多くのことを「現代」に問いかけ、挑発していた。そして、このセステートがプグリエーセのリズムである「ジュンバ」を多用していて、「ピアソラは、よく言われるようにタンゴの異端でも前衛でもなく、タンゴの本流なんだ」と自分なりに納得していた。ブエノスや日本でプグリエーセと共演させてもらった経験から、そう確信していたのだ。当時、私にとってタンゴはピアソラとプグリエーセに集約されていた。

こういうコンサートがどうしてオランダで可能だったのだろうか?高場さんのような、よっぽどの目利き(耳利き?)がいて、人々を啓蒙し、シーンを作り、盛り上げたのだろうか。毎年のようにピアソラもプグリエーセも呼ばれていたそうだ。

これはもう、鑑賞するという姿勢とは一線を画している。自分の生き方を賭けてプロデュースしたのだろう。演奏家だって生き方を賭けて、命を賭けて演奏しているわけで、それに対峙する決意がみえる。持ちネタを組み合わせて喜んでいるグルメプロデューサーとは訳が違う。

会場に来ていた不良中年・老人達にも、心にくすぶり続けているものがあるはず。鍛え抜かれた聴くチカラを基に、日本の若いタンゴ演奏家にもドンドンと苦言を呈し、厳しい批評をする、様々な企画を立てシーンを創っていく、なんてことは夢なのかな? 数年前のピアソラブーム、昨今のミロンガブーム、言いたいことがいろいろあるだろう。私の年齢もそっちに近づいているわけだし、ドンドン小言を言ってみんなに嫌われようではないか!

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