1音聴いたら、誰の演奏だかがわかる、というのがジャズやクラシックのスタープレーヤー達に与えられた栄光だった。長い間、そういう成り立ちに疑問はなかった。私の韓国体験では、そこから崩れていく。
1 音で誰の演奏かわかる、という考え方は、自己表現を是とする、と言っていいだろう。それは、神と契約している個人が自分と他を区別するために、切磋琢磨し、方法を作り出すこと。近代以降はそれに疑問を持つことはなかった。アジアの国、日本でも明治維新以後、個人の自立こそが近代人たるための資格だった。
言うまでもなく、金石出さん安淑善さん達は世界一流の自己表現をする。しかしそれが目的のすべてではないのだ。ジャズやクラシックのスタープレーヤー達は、身体や精神をこわしたり、薬や酒におぼれたり、短命に終わる例が多い。
ソウルのスタジオで、金石出さんと、あるジャズプレーヤーのセッションの時だ。ジャズプレーヤーがいつものように、自分の良いところをだし音楽を作っていき、得意技を連発し約20分たったころ。普段なら聴衆の熱狂と身体の限界と共にある種のカタルシスを迎えるであろうころ、指をつってしまい演奏が不可能になった。止まった演奏に「もう、終わりですか?」とビックリしたのが、倍くらいの歳の金さんだった。やっと身体が温まってこれからだ、と思ったそうだ。
自己表現を目的にする音楽と、クッなどお祭りでの場作り・祝祭空間作りを目的とする音楽の差。自己表現の場合の素材は身体のみ、いくら鍛えても限りがある。一方、自然の大きなリズムに身を任せる、自分が媒体となる場合は無限に広がっていく。前回、李光寿さんのコトバでも紹介したように「病気が治っていく音楽」だ。この差は大きい。
「伝統から盗まないで、何から盗むのだ?」とピカソが言ったとか。金さんたちは長短(チャンダン)というリズムを基本に演奏する。ほんの数小節に集約されるリズムに、膨大な知恵と歴史が詰まっている。たとえば、5拍子のオンモリというリズムは「何かが始まろうとしている」状態とか「動物」を表すという。繰り返し演奏していると記憶の中からよみがえるものがあったりする。
無から創造するのだ、という考えはある意味かなり傲慢だ。その「無」って本当に「無」なのか。私の持っているこの身体は充分に「アジア的」特徴を具え、日本語で考え、2009年の東京の刻印をしっかり押されている。
エンターテイメントの考え方とも関係する。一般的なアメリカ式のエンターテイメントだと、演者と聴衆との横の関係のみが成り立ち、100円のチケットでは 100円の演者、10000円だと10000円の演者が対応する。クッでは、演者も聴衆も上にいる「神」に向かっている。聴衆は自分の代わりに演者に演奏を頼むという三角形が成り立つ。捧げ物としての音楽。かつて能の公演でも客席に神の座る場所があったという。
音楽を「素材」の組み合わせで成り立たせてしまう、どれとどれを組み合わせれば効果的か、どういうリズムが今の流行りで、どういう和声がカッコイイか、で成り立ってしまう音楽は、実は、恐ろしい。音楽から仕返しをされる。ミュージシャンが体や心を壊すのもその仕返しの一つなのだろう。