オンバク・ヒタムこぼれ話(1)

この石垣島コンサートは、忘れられないものでした。二日間沢井一恵さんとの即興デュオをアトリエ游でやりました。ご子息を近くの島で事故で失った一恵さんは、きっと石垣島でのコンサートに何か思うところもあったと思います。

1日目が終わり、(実は、お世辞にも良いコンサートとは言えなかった・・・・)お弟子さんが一恵さんに耳打ち。ご主人が熊本でクモ膜下出血で倒れたとの知らせでした。(一恵さんは何かを直感していたために本調子にはならなかったのでしょう。)

どうぞ、直行してくださいという我々の申し出を断り、2日目もコンサートを行い、翌日熊本へ急行しました。その2日目の演奏が前日と打って変わった演奏で、ジャバラレーベルの第一作として「八重山游行」に収められました。

ラッキーなことに、カテーテルの専門医がちょうど熊本にいたために、大事には至りませんでしたが、再度倒れたときは覚悟をするようにと、担当医に言われたそうです。一恵さんはそれを一人胸にしまって年月を過ごしていたのでした。想像を絶する生活です。

板橋文夫さんのソロを博多の西尾さん宅でやったときは熊本からお二人して訪れたと言います。私も及ばずなから、いろいろな音楽をカセットに入れてお送りしました。

森田純一さんのジャバラレーベルはその後、私の作品をいくつか出した後、(「ペイガンヒム」「コントラバヘアンド」「アウセンシャス」「ジョエル・エ・テツ」)奄美音楽の専門レーベルとして一躍有名になりました。里国隆さんの脳天を突き抜けるような歌声にしびれて、その痕跡、独特の短い竪琴を探しに、森田さんの運転手として、奄美中を走ったことがありました。

今をときめく中孝介クンが母親に連れられて、森田さんに会いに来て歌を聴かせてくれた村の公民館も忘れられません。休憩中に屋上に上がると、中学生でしょうか、高校生でしょうか、10人乗りくらいのボートに男女別に乗って、試合の稽古のようです。夕日に向かって、光る海を進む二艘のボートと若い歓声との風景は今でも時々よみがえります。田中一村さんも黒糖焼酎も、今のように有名でなく、名瀬の街は時の流れを忘れたかのようでした。

森田さんも、オンバク・ヒタムを感じているのでしょう、バリ島と奄美を繋げる企画も進行中だといいます。

西尾さんは、バール・フィリップス/井野信義/齋藤徹 オクトーバー・ベース・トリローグの演奏を気に入ってくれました。八女の陶芸家の庭先で三人のコンサートをしようとすぐに計画を立ててくださいました。その後、私がたまたま博多に行ったときお邪魔すると、今から行こう、と八女まで車を走らせました。この木の元にバールさん、この木のところに井野さん、ここにテツさん、ともう配置まで決めていました。箏アンサンブルによる「ストーン・アウト」も気に入ってくれ、陶器の博物館でやろう、などといろいろと案をだしてくださいました。突然の訃報に接したときは現実のこととはどうしても思えませんでした。博多の火がフッと消えたような気がしました。

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