ゲンブリとファド

ポルトガル・モロッコ国旗

グナワ音楽での、ゲンブリのソロが主流な理由を歩きながらあれこれ考える。

低音弦のみでリズムを揺らしながら繰り返すことで何が生まれるか。倍音で空間は満たしつつも、主要なメロディ(うた)を歌う高音域楽器がない。心憎い合いの手をいれる音もない。それは、そう、勝手に歌う空間が残されているということだ。よく歌うメロディ楽器があって、器用な奏者が自在に歌うと、人たちは気持ちよく「聴衆」となる。そして充分な満足感を得られる。それで完結。

ところが、ぶきっちょな低音弦のソロでリズムを揺らしながら執拗に繰り返すと、残った空間に自分の唄を投げつけようか、という気持ちが起きる。また、自分の内部を探っていくベクトルを作る余裕がいつしか生まれる。その二つが交差する。自分自身の歌が生まれる可能性だ。

峰万里恵さんの伴奏者・高場将美さんから学んだ重要なこと。「これ見よがしの複雑な伴奏が歌をダメにする」。自分の良いところ、上手いところを見せようと、歌を聴かずに伴奏すると歌を殺す。

不器用に、のそのそと、通らない音量で、音程も揺れながら、リズムも揺らしながら、決して大向こうをうならせずに、いつ止めても気づかれない、そんな弱点はそのまま長所に替わり、大弱点は大長所になる。効果重視(偏重)の世の習いをうっちゃるチカラとなる。商業主義には乗らないけれど。

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ペソアのファドについてのアンケートに対する答えを発見。(「ペソア詩集 澤田直 訳編」思潮社)

「あらゆる詩はーーー歌というものは伴奏のある詩ですがーーー自分の魂に欠けているものを反映します。だから、哀しい民族の歌は陽気で、陽気な民族の歌は哀しい。

 しかし、ファドは明るくも哀しくもありません。ファドとは、間のエピソードなのです。ポルトガル的魂が、まだ存在する前にファドを生み出し、望む力もなく、すべてであることを望んだのです。

 力強い魂はすべてを運命に帰す。弱い魂だけが自らの意志などという存在しないものに期待するのです。

 ファドは力強い魂の倦怠であり、信じていたのに、自分を捨てた神に対してポルトガルが向ける軽蔑の眼差しなのです。

 ファドのうちで、彼方にいた正統な神々が帰還します。これこそが、ドン・セバスチャン王という人物の第二の意味なのです。」1929年4月14日

なるほど。 

最初の文は分かります。しかし、だんだんとお手上げ。確かにファドとは「宿命」とか「運命」と言う意味なので、明るいとか哀しいとかの尺度を超えているのかもしれません。

16世紀、ドン・セバスチャン王はモロッコに戦いに行ったまま行方不明(本当は戦死)、いつしかポルトガル解放のために戻ってくると言う伝説があるそうです。ここでファドとグナワ音楽が繋がった?

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