当たり前すぎて気がつかないでいることが多い。東工大のインターナショナルハウスに滞在しているジャンさんを訪ねた。「昔と比べるとね〜」というニホンゴが好きなジャンがしきりと嘆くのは蛍光灯。明るすぎる、白すぎる、強すぎる、というわけだ。なるほどそうかもしれない。ちょっと黄色がかった明かりの方が目にもココロにも良い。「ニホンは紙の文化も発達しているし、明かり取りにさまざまな工夫をしてくるなど、かすかな明かりを愛でていたんじゃない?」と言う指摘。明るすぎるアパートの蛍光灯に辟易してアロマ用の小さなロウソクに火をともすジャンとアンニャ。(このところ、間接照明が流行ってきているし、新幹線のグリーン車の明かりはちょっと黄色がかっている。まだゼイタクのレベル?)
明るいもの、清潔なもの、白いものに価値があるいう考え?「昔はね、金持ちってのは恥ずかしいものだったんだよ、」と立川談志が良く講座で語る。私の世代は、かすかにそういう風潮を思い出すことが出来る。下級武士の伝統だろうか?清貧の思想だろうか?トイレの100ワットと言ってアメリカ式文化を軽蔑することもあった。高度経済成長期はこういう事すべてを忘れた。
敗戦後、ニホンは貧しかった。私にしてもキャラメル、オレンジジュースの味に驚いた。30年前、韓国を訪れたとき、コーヒーショップ全盛(政府が珈琲の値段を決めていたほど。)で、ともかく砂糖をたくさん入れることがもてなしだった。ニホンは当時少しずつ甘くない嗜好品が流行り始めていた。
ともかく明るい照明が良い、清潔が良いという単純な発想で世の中が動いてきてしまった。清潔志向も行きすぎてしまい、アトピーやO157で困っている。
「豊かになりたいという気持ちは否定できないでしょう?」とグローバリゼーションを肯定するのには罠がある。「お金儲けってわるいことですか?」とうそぶいて逮捕されたIT長者と同じ。「小金をもっていると人間ろくなことないから、年1回のお祭りで全部使っちゃうのさ」という島の知恵。落語「水屋の富」の洒落、パイの配分という考えかた。
ちょうど、今度のジャンとの演奏で、たくさんのコインを持ちすぎたために身動きが取れず、それをばらまいてやっと自由になるという新演目の構想を練った。ジャンの話してくれた逸話「寒い中、朝早く起きて、湖に出て3匹の魚を取り2匹を売って残りを食べる、という漁師がいた。もっとたくさん取って売れば良い、とそそのかす友人。そうすれば、人を雇って自分は遊んでいられる、空いた時間に何がしたい?朝早く起きてひとりで魚を取って食べたい・・・・・」
もうひとつは「塩」。ジャンは駅前の東急ストアで「藻塩」というのを買ってきていて、「なんで塩に安いのと、高いものがあるの?」と聞く。そういえばずっとケミカルで安価な「専売公社」の塩が日本中で使われ続けていた。このところ海からとった昔ながらの製法の塩が多種類販売されている。微妙な味加減、あんばい(塩梅)を楽しんでいたニホン人の感覚が、消費文化全盛のグルメ指向の影響もあって甦ってきた?フランス・ゲランドの塩の歴史も興味深い。清めの塩、地の塩、生理的食塩水、ヒトは海からやってきた。
明かり、塩、とても大事なモノのような気持ちが甦ってきた。