岩崎久仁彦展

ギャラリー・ブロッケン  2月7日まで(5日休み)

大成瓢吉さんの親友だった岩崎久仁彦さんが初!の個展を開いた。30年近くも顔見知りだが、ともかく伝説の画家で実際の絵を見たことがなかった。セロニアス・モンクやエリック・ドルフィーの大好きな方。会場にはモンクのソロがずっと流れている。何事もスウィングしているかどうかが大事で、尺八を吹き大成さんのピアノとセッションをしていた。その尺八の音で近所の犬が恐怖で泣き叫ぶという話を聞いたことがある。いや、喜んでセッションしていたのかもしれない。ともかく行くしかない。武蔵小金井の住宅街に突然あらわれるギャラリーにも驚いた。

昨年描いた絵を床に、今年描いた絵を壁に飾ってある。A3以下の大きさの紙のみ。昨年の12月中旬、突然、個展を開くことにしたそうだ。「これがその日の絵です」と教えてくれた。そして、個展をやることにした翌日からの絵が変わったとおっしゃるし、そう観える。そしてとても良かった。ともかく何十年も毎日毎日何枚も発表を考えずに絵を描くという生活。

人に見せる絵と自分のための絵との違い。自分のための絵を「死に絵」と定義、自分が死ぬためのパスだとおっしゃる。とても細密に描かれた線と色彩。その発展系としてその上を黒で塗りつぶしたり、切り刻んだり。人に見せるモノではないので体裁など要らない。これ以上純粋な行為はない。そのような作業を経て定着した絵は自分の手を完全に離れているので、客観視できるという。ともかくすべて(およそ140点)もの凄い密度。時間と閃き。流行りすたりやコンセプトと無関係。「この茶色はインスタント珈琲なんですよ。」とおどけてみせる。

何十年も発表せずに今回踏み切った一つの理由は大成瓢吉さんへのレクイエムだそうだ。今年になって描かれた絵がとてもよく見えたということは、どういうことだろう。人に観てもらおうう、絵を観ようという関係の中で何が起こっているのか。何かを感じたいという意志が働いたり、感じさせたいと思ったり、それは良いことなのか?

描くモノがまず強烈にあった、しかし当時は技術がなかった。それを絵にするために技術を習った。逆ではない、と強調されていた。そういうトピックも含めて、どうしても自分そして音楽と比較してしまう。特に今、何とか「七つのピアソラツアー」を成功させようと、裏方の仕事ばかりをしているので、良いものをやって喜んでもらって経済も悲惨なことにならないようにしよう、そして先に繋がるモノが見えてくればいい、とばかり考えている。音楽のことを考えて、突き詰める時間がない。こういう厳しい態度の表現を観ると、まるでアリバイか言い訳作りのように思えてしまう。ホントに美術の人たちは私の先生が多い。

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