「もの」に何かが宿ったり、何かを象徴したり、ヒトになにかを気づかせたりするのだろうか?
今日の未明に目が覚め、枕元のメガネに手を伸ばすとメガネが鼻当ての所から真っ二つに割れている。強打したことは全くない。折しも新しいメガネを注文していた。お役ご免とばかりに自己処理したのだろうか?(身の回りの人々のことも気にしたが、幸い今のところニュースは無い。私も今日一日無事だった。)
それで思い出した。
私が二台前に使っていた楽器(おーらいレーベルやジャバラレーベルで何枚も録音した思い出の楽器だ。)を、今、札幌の瀬尾高志が弾いている。ブログに何回も出ている北海道のコントラバスアンサンブル「漢達の低弦」のリーダー・愛すべきベーシストだ。いろいろな偶然や必然が重なって彼の元にある。
彼が元の所有者から譲り受けた翌日、この世の春を謳歌していた矢先、指板(フィンガーボード、左手の指を置く弦の下の黒檀)がはがれた。もちろん演奏できる状態ではない。修理を見ながら「新しい弾き手に自分の本当の姿を見せているような気がした」と瀬尾は語っていた。まあこういうこともあるのかと思っていたが、数日前また電話。「テールワイヤー(弦を支える板とエンドピンを繋ぐもの)が外れたんですけど・・・・・・」そんな話は聞いたことがない。ここまでくると通過儀礼(イニシエーション)をしているかと勘ぐってしまった。
彼の一代前の所有者もネックが外れたことがあったそうだ。私は数年間弾いていたが問題が1回もない珍しい楽器だった。
「もの」に何かが宿るということはあるのだろうか?ゲーリー・ピーコックというベーシストが禅の修行で日本に滞在していたとき、使った楽器の話。もの凄く鳴っていたのだが、日本においてアメリカへ帰った。それを譲り受けた人が弾いても全く別物だった。
「もの」と言う日本語じたいが漠然としている。「もののあはれ」「もののけ」など外国語に訳すときとても苦労する。コトバが「コトノハ」というのと似ている。少なくともかつてのニホンジンは「もの」「こと」に対して敏感に反応していたのだろう。100円均一ショップで買う「もの」たちには「もの」自体への愛着も、作ったヒト、流通しているヒト、への尊敬も無い。とりあえず「使える」ものを使っている内に「失われていくもの」を思う。それは「言葉」や「音楽」にも共通するものがあるはずだ。「効果的な音」「伝わればいいだけの言葉」で間に合わせている間に失ってしまうものの大きさを思う。
「楽器はカタチが変わらないから良いのだ。」と古武術家の文にあった。若い頃、ベースのいろいろな可能性ばかりを考えていて楽器自体をいじってやろうと思ったことがあったが、あえなく挫折した。アスベスト館のポーランド公演用に韓国の銅鑼をダンサー全員で持とうと言うことになった。良い銅鑼を当時の日本で揃えることはできなかったので、美術担当が金属で同じカタチのものをたくさん作ろうとしたがこれも無惨に挫折。素材と音とカタチはギリギリの最終形であって、簡単に変形できるものではないことを痛感した。
数年前サンフランシスコで、急逝した若きベーシスト、マシュー・スパーリーさんの楽器を弾いた。生前私の演奏が好きだったということで、追悼もあって弾いて欲しいと言うことだった。トム・ウェイツ、アンソニー・ブラックストンという異なるジャンルのスター達に気に入られ、子供も生まれ順調に人生が流れ始めた時に交通事故に遭ってしまった。ソフトケースから出して手に取ると昨晩まで弾いていた感じだ。試し弾きをすると全然私のフレーズでないメロディがドンドン出てくる。助けてくれ~という感じで、弦を張り替え、少し自分に引き寄せた。(ご主人はもういないのだよ、と楽器に悟ってもらった感じだ。)
「もの」の言っていることに耳を傾けられ、「もの」を貞く(きく)ことのできるようになりたいと思ったちょっとオカルトな日でした。
追伸:前記の瀬尾高志とのデュオが9/23 入谷なってるハウスであります。もちろん彼はその楽器を持ってくるでしょう。どんな楽器になっているのか?今幸せ?